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Vol.041 2017.02.17

宇宙飛行士 山崎直子さん

<前編>

興味を温めていれば
やがて道はつながる
自分がいる今を大切に歩もう

宇宙飛行士

山崎 直子 (やまざき なおこ)

千葉県生まれ。1993年東京大学工学部航空学科卒業。1996年同大学航空宇宙工学専攻修士課程修了後、宇宙開発事業団(NASDA、現JAXA)に勤務し、国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」のシステム・インテグレーション(開発業務)に従事。1999年2月、ISSに搭乗する日本人宇宙飛行士の候補者に選定され、2010年4月、スペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗。著書に『夢をつなぐ 宇宙飛行士・山崎直子の四〇八八日』(角川書店)、『宇宙飛行士になる勉強法』(中央公論社)など。

ロマンと謎に満ち、人々を魅了する宇宙。その宇宙で、日本人2人目の女性宇宙飛行士として任務を果たしてきた山崎直子さん。夢に向かって努力を重ね、宇宙飛行士候補者に選ばれましたが、搭乗まで11年を費やしました。その間に結婚・出産されるなど、働く母としての苦労や重圧もあったはず。それをどう乗り越え、夢を実現させてきたのでしょうか。

目次

宇宙に関心をもつようになったのは小2のとき
「星を見る会」に参加したことがきっかけ

宇宙飛行士 山崎直子さん

現在私は、内閣府宇宙政策委員会の委員として、宇宙開発利用に関する政策の企画立案などに携わっているほか、宇宙のことをさまざまな世代に知ってもらう「宇宙教育」の普及に力を入れています。

子どもたちが宇宙のこと、地球やいのちの大切さを学ぶ「日本宇宙少年団(YAC)」という団体でアドバイザーを務めたり、理事を務める「日本ロケット協会」では、航空宇宙分野に携わる女性たちと「宙女(そらじょ)」というネットワークをつくり、その委員長として勉強会やワークショップ、イベントなどを行ったりしています。大学の客員教授として学生に宇宙について講義したり、自治体から招かれて各地で宇宙に関する講演もしています。

宇宙開発はもちろん、宇宙船もどんどん進化しています。船内ではインターネットが使えますし、空き時間には家族や友人とIPフォンを使って電話ができます。長期滞在の宇宙飛行士の中には、テレビ電話越しに子どもの宿題を見ていたりすることもあるほど。開発が進めば、そんなふうに日常生活の延長のように、誰もが宇宙に旅立つ時代がきっとやってくるでしょう。そのためにも、多くの人に宇宙の素晴らしさを伝えたい、もっと宇宙に関心を持つ人が増えてくれたら、と考え、さまざまな活動を続けています。

私は千葉県松戸市で生まれ、幼稚園から小学2年生までは、自衛官だった父の転勤で札幌で暮らしました。北海道は星がきれいでしたね。札幌も松戸も当時はのどかで、子ども時代はのんびりと過ごしていました。

宇宙に関心をもつようになったのは、小学2年生のとき、「星を見る会」に参加したことがきっかけかもしれません。望遠鏡で月のクレーターと土星の輪がくっきり見えたのです。そのときには「宇宙を目指そう」とまでは思いませんでしたが、「宇宙ってすごいな、おもしろそうだな」と感動しました。自分の目で見たり、体験したりしたことは、印象に残りやすいのかもしれません。

その後再び松戸に戻ると、ちょうど近所にプラネタリウムができたんです。季節ごとに星座の話があり、よく聞きに行きました。『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』など、宇宙を描いたアニメも好きでしたし、そうしたことが重なって少しずつ宇宙に興味が出てきたのだと思います。

山崎さんの子ども時代とは?

いろいろな将来の夢を描いていた子ども時代

宇宙飛行士 山崎直子さん

小学生の頃の将来の夢は、学校の先生やお花屋さん、ケーキ屋さん、ディズニーランドで働きたいなど、いろいろでしたね。宇宙は好きでしたが、宇宙飛行士という発想はありませんでした。当時はまだ日本人の宇宙飛行士は誕生しておらず、私にとって宇宙はSFやアニメの世界だったからです。

私は小学校の時に近所の寺子屋みたいな個人塾に通っていたのですが、中3のときに初めて近所の塾で本格的に夏期講習を受けました。そこで受けた模試で、全国でたくさんの人が同じ試験を受けることに衝撃を受け、世の中の広さを感じて視野を広げるようになりました。

自宅は狭かったので自分の部屋は持てず、居間で宿題や受験勉強をしていました。高校生になってからは、やはり自分の空間が欲しくて、父と一緒に廊下にカーテンで仕切りをつくり、机をひとつ置きました。でも部屋じゃないので、親とケンカしても、すぐカーテンを開けられて「ごはんよ」なんて(笑)。当時はいやでしたが、そんな環境だからこそ、集中力がついたのかもしれません。

両親はとくに教育熱心というわけではありませんでした。父は寡黙で姿勢がよく威厳があり、母はおしゃべり好きで心配性。私の興味を知って、子どものときは宇宙に関する情報をよく教えてくれたのが印象に残っています。

高校生くらいになると、部活などで帰宅が遅くなりますが、母は雨の日も寒い日も毎日駅まで迎えに来てくれました。いま自分が親になってみると、改めて母のすごさがわかりますね。感謝の気持ちでいっぱいです。

山崎さんが宇宙開発に携わりたいと考えるようになったきっかけとは?

アメリカ留学のため1年かけて両親を説得

宇宙飛行士 山崎直子さん

東京大学工学部に進んだのは、宇宙開発に携わりたかったからです。将来宇宙に携わりたいと考えるようになったのは、中学3年生の冬、受験勉強をしながらテレビでスペースシャトル「チャレンジャー号」の事故の報道を見たときでした。ショックだったのと同時に、それまでSFやアニメの世界だった宇宙が、「本当に宇宙開発が行われていて、有人宇宙船があり、宇宙飛行士がいるんだ」と驚きました。事故は本当に残念でしたが、宇宙を目指してがんばっている人たちがたくさんいることが伝わってきて、「宇宙に行けたらいいな」「宇宙開発に携わりたいな」と思うようになりました。

でも高校の頃は、最初から100%理系に進もうと思っていたわけではありません。中学生のとき、アメリカの女の子と文通をしていて、送られてくる異国の写真が珍しくて、「いつかは海外へ行ってみたい」と思っていました。「海外で働くなら外交官や通訳かな。それならば進路は文系かな」と、文系に進むか悩みました。でも結局、宇宙への憧れが強く、理系に進みました。

さらに大学院に進学して専門的に学び、この時に念願のアメリカ留学を果たしました。航空宇宙開発はアメリカが本場ですし、社会人になる前に行っておこうと考えたのです。ところが両親に相談したら、猛反対されました。でも1年かけて自分で調べて準備して、もう一度お願いしたら、「ここまで自分でやったのなら行ってこい」と背中を押してくれました。

留学先のメリーランド大学は、半分以上がアジアなどからの留学生で、「こんなにたくさんの人種の人がいるんだ」「同じ英語でもいろんな地方で違うんだ」など、発見の連続でした。じつはこのアメリカ留学中に一度、宇宙飛行士に応募したんです。書類審査で不合格でしたが、「また機会があれば挑戦しよう。長い人生のどこかで行けたらいいな」と、そんなに焦ることはありませんでした。

関連リンク山崎直子さんTwitter日本ロケット協会※山崎直子さんは日本ロケット協会の理事を務められています。


宇宙飛行士 山崎直子さん 

後編のインタビューから

-宇宙飛行士に求められる力とは?
-山崎さんが宇宙に行って感じたこと
-山崎さんからのメッセージ

 

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