子どものころは貧しい時代だったけれど
「愛」があふれていた
わたしが劇団を立ち上げたのは40年ほど前ですが、それによって何ができたかといわれると、とても困るんです。みなさんの心に何かを残して、お役に立っているのが一番大事ですが、演劇は観た方が背負って帰るもの。帰り道に一緒にきた方と感想を語り合うなどして、ご自身で「何か」を見つけてもらえたらうれしいですね。親子で観れば、それが会話の糸口にもつながると思っています。
演じるのは小さいころから好きでしたが、職業にするとは思ってもいませんでした。わたしは医師の父と看護師の母の間に、4人きょうだいの長女として原宿で生まれ、その後、父が開業することになり、町田へ引っ越しました。母が働いていたので、同居の祖母が家事を切り盛りし、わたしたちの面倒もみてくれました。とくにわたしは、おばあちゃまっ子で、一緒に映画を観たり、お琴や日本舞踊を習わせてもらったり。のちに着物に関する本(『着物しらべ』[読売新聞社])を書くことになったのも、祖母から「日本の暮らし」の中で楽しむことをたくさん教えもらったことが影響しているのかもしれません。
夏休みになると、毎日、父の診療所の廊下を磨かされました。きれいになると褒めてもらえて嬉しかったですね。家族で海に出かけるときには、父、母、祖母4人姉弟に加えた看護師さん、お手伝いさんの大家族でしたので、荷物は分担して持つのがわが家流。子どもなりにも役割や責任を与えられ、そのことに反発心を抱くより、当然のこととして受け入れていました。いま思えばしつけの一環だったのかもしれませんが、押しつけではなく自然に社会性が身についたように思います。そんな経験もあり、子どもは環境を与えればすくすくと育つと思っています。わたしが子どもだったころは、食べるのもたいへんな時代。親は子どもに食べさせるため必死に働いていた。贅沢はできなくても、家族の幸せを考えてくれていた。
そのころ、母は流行りの機械編み機を入手して、夜なべして4人に柄の入ったセーターを編んでくれた。セーターの暖かかったこと。長女の私のセーターは一番最後でしたから、うれしくてうれしくて夜中に何度も目を覚まして“ジャー”っという機械音を聞いたものです。そんな親の姿を見て、「愛情を注がれている」と、子ども心に感動したことは今もハッキリ憶えています。
4人も子どもがいると、ステキなプレゼントの記憶は浮かばないけれど、両親の愛、きょうだいの愛、叔母たちの愛……そして祖母からは生きていくために必要な、暮らしの中の“生きた知恵”をたくさんたくさん授かったように思います。
映画デビューのきっかけをつくってくれた父
女子大を中退して女優の道へ
わたしとお芝居の最初の出会いは、地元の幼稚園のクリスマス会のとき、出し物でマリア様役をやったことかしら。幼稚園卒園後は地元の公立小学校へ進みましたが、3年生の時に私立の玉川学園小学部へ転校しました。
入学後は、いつの間にか演劇部に。玉川学園はみんなが平均的に同じことをしようというのではなくて、先生が子ども一人ひとりをみて、その子に合う進度表をもとに勉強をしました。学校演劇の第一人者、岡田陽先生の率いる演劇部は、小学部から大学の学生までが一緒に稽古し、映画も学園を舞台にした『窓からとび出せ』や『すずらんの鐘』など……楽しかったですね。この頃の演劇活動が、わたしの原点かもしれません。
ところが、そんな自由教育では私があまり勉強しなかったからか、親の勧めで高校は日本女子大学附属高校へ進みます。友人の間では、「医学部へいくために学校を変えた」と思われていたみたい。でも、わたしは血を見ることすら苦手で、医者にも看護師にもなりたくなくて。父から「医者になれ」と言われていたものの、じつは父自身はかつて文学者を目指していたのです。けれども弟を急性の盲腸で亡くしたことから「医者になる」と決め、すぐに編入したそうです。心の中では、文学に近い演劇に熱中する私を応援してくれていたのかもしませんね。
高校でも演劇を続けたのち、日本女子大の2年生の時に日活映画でデビューするのですが、そのきっかけをつくってくれたのも父でした。結局、大学は2年で中退してしまい、女優の道に進もうと決め、日活に入社します。もううれしくて、楽しくて。映画の撮影に明け暮れました。一方では女優として実力不足も感じていたこともあって、日活を退社、俳優座養成所13期生として、本格的に芝居の勉強をすることにしました。
悲しかったりつらかったりしたら、明日泣けばいい
やなせたかし原作・ ミュージカル「ファーブルの昆虫記」 |
その後、テレビや映画などで演じるようになり、結婚もして、充実した日々を送っていました。ところが、あるとき、映画監督の夫がイランで開かれたフェスティバルに作品を出品したとき、あるドイツ人からこんなことを言われた、と帰ってきました。
「現在の日本はすばらしい、でも気をつけないといけないよ。日本人は働き過ぎで親子の断絶が見えるから、次の世代に心と時間をかけてしっかり育てないと」と。その方は、日本の親子の関係性がおかしくなってきていることに気づいていたのかもしれません。
わたしたちには子どもはありませんでしたもので、その代わりに何ができるかを考えました。夫は映画監督でプロデューサー、わたしは女優。一緒にできるのは何かなと考えたとき、これまであまりやっていなかった“生の舞台”を、子どもたちのために作ることにしました。
こうして1977年に立ち上げたのが、「劇団目覚時計」です。子どもをめぐるさまざまな問題について、「社会に警鐘を鳴らす」というのはおこがましいけれど、どこの家にもある目覚時計をチリチリ鳴らせば、一人ひとりが気づいてくれるかも……という思いを込めて名付けました。
それからミュージカルをはじめ、いろいろなことに劇団は取り組んできましたが、つらいと思ったことはないですね。たいへんなことは、もちろんたくさんありました。でもわたし、悲しいことがあっても泣かないんです。「明日、泣こう」と思うから。それで明日になるとすっかり忘れているから泣かなくて済むんです。そうすると、すごくラクよ。
自分が考えて解決できることだったらいいけれど、人生にはそうじゃないことがたくさんあります。ズルズル考えてしまい、そこに引きずられて目的を失うことのほうが、まずいのではないでしょうか。人生はいつも、右か左か、必ず、どちらかを選ばなくては進めません。そんなときは、よく考えて、どちらかを選ぶ。でも、「こうじゃなきゃいけない」とは考えないほうがいい。選んだ道以外にも、いろんな道がありますし、いろんなことが起きるし、自分の発想だって変わります。だから自分を制約しないで生きていったほうがいいと思っているんです。
関連リンク 劇団目覚時計 青少年の心を育てる会 ※3月30日(水)に青少年の心を育てる会主催のイベントがございます。 詳細については、こちらのサイトでご確認ください。
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