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Vol.011 2014.07.18

腹話術師 いっこく堂さん

<前編>

誰か考えたことをするよりは
自分考えたことをやりたい

腹話術師

いっこく堂 (いっこくどう)

1963年、沖縄県出身。本名、玉城一石(たまきいっこく)。ものまねタレント、劇団民藝の舞台俳優を経て、1992年から独学で腹話術に挑む。これまでにない「2体人形の同時操り」「時間差会話」「唇をまったく動かさない技術の高さ」など、腹話術で独自の境地を開き注目される。1999年には文化庁芸術祭新人賞をはじめ各賞を受賞。現在、アジア・アメリカ・ヨーロッパなど18か国に活動の場を広げ、国内外合わせ年間200を超える公演をこなす。2012年、初の著書『ぼくは、いつでもぼくだった』をくもん出版より刊行。

腹話術に新しい風を吹き込み、日本国内のみならず海外にも活躍の場を広げるいっこく堂さん。腹話術という伝統芸に新たな境地を開くために、どのように挑んできたのか。多大な努力の積み重ねで芸の道を究めてきたストイックなまでの姿勢は、学びに対する謙虚で真摯な取り組みに通じるものでした。

目次

命どぅ宝(ぬちどぅたから)”という教え

いっこく堂さん

父親は、僕が小学1年生のときから3~4年くらい、船員としてずっとタンカーに乗っていました。母は家の借金を返すために夜中も働いていたので、両親ともにとにかく家にいませんでしたね。そんなでしたから、子どものころは自由奔放に遊んでいました。

わが家にはテレビがなかったので、人の家に行って見せてもらったり、本当はいけないのですが、米軍基地のなかに入って探検をしたり。いい子かわるい子かでいえば、わるい子でしょう。礼儀を教わったこともありませんでしたし。でももしかしたら、それは沖縄という風土だったからなのかもしれません。みんな大らかだから(笑)。自分の子も人の子も一緒に育てるっていう土地柄ですね。

僕は働いている母をずっと見ていたし、借金があるのも知っていました。だからグレるとか道を外れる、ということはなかったです。母の口ぐせは「命は大事」。“命どぅ宝(ぬちどぅたから)”というのは沖縄の人はみんな言います。何でも命あってこそ。おそらく悲惨な戦争を体験したからでしょう。

母は夜も働いていたので、夕食は毎日のようにタッパーに入ったモヤシ炒めでした。僕がそれに文句を言うと、「昔は食べられなかったんだよ!」とよく叱られました。第二次世界大戦中は両親ともに南方戦線にいて、本当に大変だったそうです。それこそカエルを食べたりトカゲを食べたり、かたつむりまで食べていたといいます。それからすればお前は本当に恵まれている、とね。

当時は学校に満足に通えるような環境ではなく、とにかく早く社会に出て働いて、家族を食べさせなきゃいけなかった。そういう時代でもあったのですね。特別に何か言葉をもらったわけではありませんが、両親は僕にいつも背中を見せていたんだと思いますし、そんな両親を尊敬しています。

僕にやる気と自信をくれた先生のコトバとは?

僕にやる気と自信をくれた先生のコトバ

いっこく堂さん

あれは忘れもしない、小学2年生の体育の授業です。先生に、僕の行進がおかしいと指摘されたことがありました。「いっこく君の足踏みはおかしいですね。ちょっと前に出て来てください。わるい見本です」って言われて、みんなに笑われて……。それからですね。人前で動くことが怖い、恥ずかしいと思うようになってしまったのは。だからお遊戯もしたくない。学芸会でもできるだけ後ろに下がっていました。いろいろなことへの自信を失ってしまったんです。

でも6年生になったとき転機が訪れます。これまた体育の授業でした。前転をしていた僕に先生が、「あ!いっこく君!」って声をかけられました。「やばい……また何か変だったかな」って体を強張らせていたら「みなさん、見てください! いっこく君の前転、キレイですね」ってほめてくれたんです。それがどんなにうれしかったか! それからはやたら自信がついて、勉強もがんばれるようになりました。卒業するまで朝学習の漢字テストはずっと100点。とにかく先生にほめられたくて、何にでも一所懸命になりました。

人を喜ばせたい、楽しませたいということに目覚めたのも、そうして少しずつ自分に自信が持てるようになったころだったと記憶しています。修学旅行の夜に、当時流行っていた人気テレビ番組のパロディをみんなでやっていて、僕は女装をしてみんなを笑わせました。小学生にしては演技力はけっこうあったと思いますよ。自分以外の何かになりきるって面白いな、と思うようにもなりました。

もし小6の体育の時間、先生のあの言葉がなかったら……。僕は小2のときに味わってしまった劣等感を引きずり、今の仕事は選んでいなかったかもしれません。先生は「僕にもできる!」という自信をくれました。自分が親になったとき、子どもに「なんでこんなこともできないのか?」なんて絶対言っちゃいけない、と思いましたね。ほめるのはいいけど、おとしめちゃいけない。良いところを見つけてあげないと。

中学時代を楽しめなかったいっこく堂さんが、高校で明るくなったヒミツとは?

「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」

いっこく堂さん

僕の家の真向かいにはフォーク歌手の佐渡山豊さんが住んでいて、芸能の世界はわりと身近にありました。テレビだけで見ると芸能界は遠くに感じますが、実際に活動している人がそばにいると現実なんですね。僕の子どものころの夢はプロ野球選手でしたが、もしそれが叶わなかったら芸能の世界もいいなぁ、なんて甘く考えていました。でも、結果的に甘く考えていて良かったのかもしれません。入ってみて初めて厳しい世界だと知るわけですが、そのときにはもうやるしかないですから。

実際に「役者になりたい」と思い始めたのは中学3年のときです。正直あまり楽しい中学時代とは言えませんでした。友だちとなかなかうまくいかなくてね。だから高校生になったら、もっと積極的に学生生活を送ろうと思っていて、演技でも、努めて明るく振る舞おうとしていました。そのころです、学校の先生たちのものまねをしだしたのは。ただただ舞台度胸をつけたい一心からでしたね。

それが評判になって、いつしか学校全体の集まりでもものまねを披露するようになっていました。校長先生のものまねもしましたよ。朝礼で僕がまず校長先生になりきって挨拶をする。「あ~集まりが遅い!」とかですね。校長先生も鷹揚で、「アンタ上手だね~」と返してくれるんです(笑)。先生たちも僕が役者になることをすごく応援してくれました。

こう見えて、ちゃんと勉強もやってたんですよ。高校1年のときは学年でも最上位をキープしていました。というのも、沖縄県内では学費免除の成績基準があって、その基準は絶対に超えようと頑張っていました。でも、ひたすら憶えるだけの勉強でしたから、今ではあまり身になっていないような気もします。

不思議なもので、ものまね芸などで明るい人を演じているうちに、本当に自分自身の性格が明るくなってきました。高校生のとき、「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」という徒然草にでてくる言葉を国語の先生から教わりました。これは「外見や行いを整えていけば、内側がいつか必ずそうなって熟す」といった意味ですが、これを聞いたとき、あぁ僕がやってることは間違いじゃないなって思いました。外側から変えていくのも大切なことなんだって気付いたんです。外側から明るくしていけば、内側もいつかそうなると。

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