命どぅ宝(ぬちどぅたから)”という教え

父親は、僕が小学1年生のときから3~4年くらい、船員としてずっとタンカーに乗っていました。母は家の借金を返すために夜中も働いていたので、両親ともにとにかく家にいませんでしたね。そんなでしたから、子どものころは自由奔放に遊んでいました。
わが家にはテレビがなかったので、人の家に行って見せてもらったり、本当はいけないのですが、米軍基地のなかに入って探検をしたり。いい子かわるい子かでいえば、わるい子でしょう。礼儀を教わったこともありませんでしたし。でももしかしたら、それは沖縄という風土だったからなのかもしれません。みんな大らかだから(笑)。自分の子も人の子も一緒に育てるっていう土地柄ですね。
僕は働いている母をずっと見ていたし、借金があるのも知っていました。だからグレるとか道を外れる、ということはなかったです。母の口ぐせは「命は大事」。“命どぅ宝(ぬちどぅたから)”というのは沖縄の人はみんな言います。何でも命あってこそ。おそらく悲惨な戦争を体験したからでしょう。
母は夜も働いていたので、夕食は毎日のようにタッパーに入ったモヤシ炒めでした。僕がそれに文句を言うと、「昔は食べられなかったんだよ!」とよく叱られました。第二次世界大戦中は両親ともに南方戦線にいて、本当に大変だったそうです。それこそカエルを食べたりトカゲを食べたり、かたつむりまで食べていたといいます。それからすればお前は本当に恵まれている、とね。
当時は学校に満足に通えるような環境ではなく、とにかく早く社会に出て働いて、家族を食べさせなきゃいけなかった。そういう時代でもあったのですね。特別に何か言葉をもらったわけではありませんが、両親は僕にいつも背中を見せていたんだと思いますし、そんな両親を尊敬しています。