問いや対話を生み出すツールとしての映像
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高3の夏に、高校生平和大使としてスイス・ジュネーブの国連欧州本部を訪問後、アウシュヴィッツ博物館へ行きました。そこで、唯一の日本人公式ガイド中谷剛さんのツアーに感銘を受けました。ホロコーストは過去の出来事と思っていたのですが、中谷さんの話を聞いていると、未来にも起こりうる可能性があるのだと感じました。離れた世界で起きた過去の話ではなく、今私たちが日本で暮らしている日常と地続きなのだと。一見、無関係に見えることを注意深く観察すると、繋がりが見えてきます。歴史は、過去のことではないと思いました。
また、非体験者でありながらポーランド語を学び、現地で生活者となった上で、日本から来た人とのパイプ役を担う中谷さんのような存在が、とても重要だと思いました。
それで「私もつなぐ人になりたい」と、祖父母は知っているけれど、父と母は知らなかったマーシャル諸島を高3の終わりに訪れました。そのときは映画にすることは考えず、親しい人に見せるつもりでカメラを回していました。
慶応大学法学部政治学科へ進学すると、国際社会学が専門でオーストラリアの多文化共生を研究している塩原良和先生のゼミに入りました。それまでは座学で学ぶ授業が多かったのですが、フィールドワークを通して「社会のことを知るのが楽しい」という感覚を取り戻せました。
ゼミ生は、外国にルーツを持つ多国籍の子どもたちが学び合う川崎市の施設に、学習支援という形で通いました。互いを知るツールとして映像作品を一緒に作り、発表する機会もありました。
映画にする以前のことですが、マーシャルの人が日本語の歌を歌う映像を友人に見せると、さまざまな反応が返ってきました。ウクレレの音色や歌の響き、表情を映像は複雑なまま伝えます。マーシャルを伝える上で、視覚と聴覚、双方で日本とのつながりを感じられ、問いや対話を生み出すツールとしても、映像表現は相性がいいと思いました。
大学卒業後、マーシャルに住むことを決めたきっかけとなったのは、塩原先生の課題図書『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を読んだことです。歴史のおもしろさを広げてくれたと同時に、オーストラリアの先住民アボリジニについての書籍でしたが、私はマーシャルで出会った人々に重ねながら読んでいました。当時は就職活動の時期でしたが、就活ができなくなるほど衝撃を受けました。「ああ、読めてよかった」という読書体験では終わらせられない…と、大学院に進み、映像でマーシャルとつながりたいと考えました。
一方で、マーシャルについて卒論を書いていると、想像以上に文献資料が少ないことに気づきました。2011年の2月末から、今度はひとりで3週間の旅程でマーシャルへ行き、大学院進学も含め次の計画を練ることにしました。ところが島に滞在しているうちに、「マーシャルで働いて暮らそう」と決意し、家族にメールしました。その翌日、東日本大震災が発生。帰国することができず、滞在を延ばすことに。結果、延長期間に現地で生活する準備を進めることができました。
帰国後は迷走、友人らのお陰で原点回帰
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マーシャル諸島では、日系企業で3年間働きました。最初の1年目は仕事に慣れること、機材揃えや関係づくりなど準備に費やしました。2年目に休暇を利用して、かつて南洋庁のヤルート支庁があったジャルート環礁を訪れました。幼い頃、ヤルート公学校で「国語」として日本語を学んだ方は、88歳になっていました。70年以上も前の記憶を思い出すことは難しそうでしたが、当時よく歌ったという「兵隊さん」(尋常小学唱歌)を歌い始めると、芋づる式に記憶が蘇る様子を震えながら撮影しました。島民の子どもが通う公学校では、マーシャル語を話すことは禁じられていたそうです。自分のペースで、休日や退勤後に撮影をしていましたが、形にすることはできないまま任期満了を迎えました。
帰国後はウェブメディアの会社に勤め、新規事業として、マーシャル諸島の人々が作る工芸品 ――現地では「アミモノ」といいます―― によるつながりを模索していました。輸入販売をしようと百貨店やセレクトショップにサンプルを持って行くと、自然素材で編まれた精巧な作りとユニークなデザインが高く評価されました。ですが、日本の市場に合わせた生産管理は、気候変動の影響を受けるマーシャルの人たちの暮らしに負荷をかけるばかりで、ハッピーではないと気づきました。
そんなときに出会ったのが、先述したマーシャル諸島で日記を書き遺した父を持つご子息の佐藤勉さんです。ウェブメディアに掲載したマーシャルの記事を読み、思いのこもったメールをくださいました。ほどなく勉さんたちがマーシャルへ行くと聞き、休みをとり同行させてもらうことにしました。仕事に行き詰まり身動きがとれなくなっていたタイミングだったこともあり、「私自身の再生の旅」にもなりました。
この時期は、親しい友人にもよく会いに行きました。忌憚のない助言を受けることで、立体的に集合知が結成され、原点を思い出すと同時に、映画作りに向き合う覚悟が生まれました。
日本とマーシャル諸島をつなぐきっかけづくりを
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私にとって、マーシャルのことを記録し、伝える方法のひとつは映像ですが、体験や記憶を語り継ぐにはさまざまな表現方法があります。今年、一冊の本を刊行しました。戦争を知らない10組13人の多彩な表現者にインタビューをした『なぜ戦争をえがくのか ――戦争を知らない表現者たちの歴史実践』です。
当事者のいない時代に戦争を考えることは、戦争を語る言葉を考えることでもあります。自分が体験していないことを表現しようとするとき、表現者はどのように体験者の声に耳を傾け、どんな言葉を選ぶのか。私自身、そうした表現に伴う葛藤を知りたかったことが出発点となった本です。
佐藤冨五郎さんの日記を読み解く過程もそうでしたが、この本づくりでも、偶然が必然のように意味を持ち始める出来事や出会いがたくさんありました。その渦中では、ただただ「楽しい」という思いがモチベーションになります。
マーシャルを知るきっかけとなった言葉は「核 環境 開発」でした。「戦争」という言葉はそこになかったのに、行ってみたら「戦争」を真ん中に置かずにはいられなくなりました。だからこそ『タリナイ』という映画が完成しました。出会い方は、伝え方を決定します。
つくづく思うことは、私は出会いの中で生かされているということです。今、生きづらさを抱えている子どもたちがいたら、「出会い」や「出会う場」が見つけられるといいなと思います。公文の教室がそのひとつになるかもしれませんね。子どもたちには、私が母から言われていた「やりたいことを見つけたら思う存分やろう」という言葉を届けたいと思います。
今後は、マーシャルへのツアーを企画できたらと夢見ています。うれしいことに、映画を観たことを機に「マーシャルへ行ってみたい」といわれることが増えてきました。
私がマーシャルを知るきっかけとなったスタディツアーはなくなってしまったので、なおさらその思いは大きいです。例えば映画の撮影地を巡るツアーなど、体験を含めた日本とマーシャルをつなぐきっかけづくりをしていきたいと考えています。
コロナ禍では実現は難しいかもしれませんが、自分の目で見て、聞いて、感じる体験は何にも代えがたいものです。そんな体験を、子どもでも大人でも、たくさんの人と分かちあえたらいいなと思います。
関連リンク
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前編のインタビューから -問いや対話を生み出すツールとしての映像 |