きっかけは1枚の答案用紙
日本が高度成長期に入ってまもなく、まだ第二次世界大戦による被害とその後の混乱からの復興途上のころのことです。
風薫る5月のある朝のことでした。いつものようにお母さんが洗濯をしようとしたとき、小学2年生の息子のズボンのポケットから、1枚のテスト用紙が出てきました。そこには、勉強は得意なほうだと思っていたわが子にしては、あまりよくない点数がついていました。
息子の父は、高校の数学教師でした。そのテスト用紙を前に、「このままでは心配ですから、少し算数の勉強を見てやってください」と母親から強く頼まれて、その父は、息子の勉強を見ることになりました。
父の名は公文 公(くもん とおる)。息子の名は公文 毅(たけし)。
その後の親子学習の光景が、他の家庭と少し違ったものになったのは、公が、世間の常識や既成概念にとらわれない、合理的な考えをする人であり、何よりも高校で数学を教えていたからでしょう。
授業中、黒板に書かれたことをノートに写すのに専念するばかりで、ほとんど自分で考えようとしない生徒たち、高校数学には計算力が欠かせないというのに、その計算に熟練していない生徒たち…。公は彼らの姿に心を痛め、生徒たちには自分で考えて自分で問題を解かせる、そんな授業を心がけていた教師でした。
一方で、よくできる生徒には、先の課題をどんどん与えて進める方法もとり入れていました。生徒たちの学力を可能な限り高めることに情熱を傾けていたのです。
ところで、息子のために開いてみた小学校の算数の教科書は、高校の数学教師としての目には、あまり効率がよくないように映りました。高校数学に必要なものという観点から見ると、家庭で勉強をさせるときには優先しなくてよいと思える部分や、適切でない学習順序があることに気づいたのです。
わが子には、いずれ高校に進んだときに困らないような学力をつけておいてあげたい。高校で数学がよくできるようにしておいてあげたい。そのために家庭では、小学校の算数の教科書に合わせて勉強させるより、高校数学に必要な内容にしぼったほうがいいだろう、結果として効率よく数学力を高めることになるだろう。
そう考えた父は息子のために、小学校の算数から高校数学までを一直線につなぐ教材を作り始めたのです。
(『公文式がわかる』くもん出版 2010年より引用)
「ルーズリーフに手書きされた計算問題」が、今日の公文式教材の原型
![]() 1954年、公文 公が息子のために手づくりした教材。 公文式教材の原型。 |
もうおわかりと思いますが、このとき公文 公が考案した手書きの自習用教材が、今日の公文式教材の原型です。ちなみに、公文 公は、のちに設立する公文教育研究会の会長に、公文 毅は同会の社長となります。
当時小2だった毅少年は、ルーズリーフに手書きされた父親手作りの教材による毎日30分の自習でみるみる力をつけ、小6のころには微分・積分の問題を解くまでにいたります。そこで、こんどは近所の子どもたちを自宅に集め同様の方法で指導したところ、どの子の学力も目に見えて上がりはじめたのです。
子どもたちの伸びとその可能性の素晴らしさを目のあたりにした公文 公は「この方法で、ひとりでも多くの子どもたちの可能性をのばしたい」と考え、1958年に大阪に事務所を開設し、もっと多くの算数教室を開くことを心に決めます。…これが、公文式が誕生した黎明期のころのお話です。
現在、「公文」は世界48の国と地域に広がり、「KUMON」と表記されることのほうが多くなりましたが、どの国でもKUMONの学習を通して、親子の笑顔がふえ、絆が深まっていってほしいと願っています。

タイ
白とKUMONブルーが印象的に配された教室です。門扉も、エントランスの屋根を支える支柱もブルー。屋根周りのデコレーションも白とブルー。そして、2階の屋根下の軒もブルー、巻かれていて見えにくいですがカーテンの色もKUMONブルー。教室が終わって、カーテンが引かれたときの白い壁とのコントラストがきれいです。徹底してますね!

ベトナム
きょうは教室がお休みの日。2階に掲げられたシート看板も目立ちますが、歩く人、バイクや自動車で通る人には、KUMONブルーのシャッターとロゴが、その存在感を際立たせています。ガードマンさんのシャツの色と座っているイスの色がブルーなのは、もちろんまったくの偶然です。

ブラジル
なんと、教室の正面は全面ガラス張り。KUMONのロゴがなければ、おしゃれなブティックのような印象です。教室のなかがよく見えるだけに、生徒さんたちも、よい意味でちょっと引き締まった表情で教材に向かう子が多いとのこと。気になるのは、送り迎えのお母さんたち。教室の外観にあわせて、おしゃれして来るのでしょうか…。