ヘビ皮を張り師匠に学ぶ職人兼奏者

これ、見てください。ヘビ1匹の皮です。三線の胴は、ニシキヘビの皮を張っています。強く伸ばしても丈夫な皮とザラザラしたうろこが独特の響きと味を醸し出してくれるのです。
沖縄の三線は、三味線によく似た形をした楽器です。三線に使うヘビの皮は乾燥されて店に届き、水につけて柔らかく戻してから、ジャッキ(皮を引っ張るために使う道具)でピンと伸ばしながら胴に張っていきます。ネックの部分である棹(サオ)と胴(チーガ)を接合し高さを調整したり、皮を張ったり、カラクイと呼ばれる糸巻きを調整して削ったり、唄口(ウタクチ)と呼ばれるナットの部分をつくったり、壊れた三線の修理もしています。それが私の三線職人としての主な仕事です。関東で修理をする店は少ないので、日本全国からからお客様が来店されます。また、海外から、特にフランスやイギリスなどヨーロッパからのお客様も多いです。フランスには「パリ三線クラブ」という愛好家の集まりもあるんですよ。
私が働いている、ここ「ちんだみ三線店」は、1996年に那覇で創業。福岡にも店があります。私は、東京店が練馬から新宿に移転した2017年から働いています。もともと三線は好きでしたが、最初は職人になろうと思っていたわけではありません。販売員として働き、空き時間に少しずつ修理も教えてもらっているうちに、楽しくなって…ヘビ皮を扱って作業するのが好きなんです。

店名の「ちんだみ」は沖縄の方言で、「調弦する」という意味があります。この名前にこめられた思いのように、このお店が、来店される方にとって「三線という楽器を通して心を心地よいところへ合わせられる」場所になれば、と思って働いています。
三線職人が私の軸ですが、2019年からは演奏家としても活動しています。ここ数年は八重山諸島に伝わる「八重山民謡」を八重山古典音楽安室流(あむろりゅう)の師範で唄者でもある金城弘美(きんじょう ひろみ)先生に習っています。昨日も石垣島在住の金城弘美師匠のところに行ってきました。4歳の息子がいてお稽古に通うのは、なかなか難しいですが、いろいろな工夫と家族の協力を得ながら、ほぼ隔月で石垣島の師匠の元に日帰りで通って教えてもらっています。島に行って師匠に直接歌を教えてもらえることはありがたく、楽しく、学ぶことがとても多いです。
沖縄の民謡の面白いところは、言葉の響きとテーマです。歌詞は沖縄の方言で、響きからは想像もできないような意味のある言葉もあります。テーマは、歴史や自然などのほか、恋愛、人間関係など、暮らしに密着したものもたくさんあり、とても魅力を感じています。
同じ沖縄でも八重山諸島は、本島とは文化や言葉などが異なり、また違った魅力があります。小さな離島ゆえの苦難の歴史が八重山の言葉で歌にされたりしていて、民謡にはその地域の文化と歴史が歌い継がれていると実感します。
三線の魅力は音色と文化
「雨」予報が人生の転機に

三線の魅力は、なんといっても心に響く音色です。そしてその音色が文化と密接に結びついていて、沖縄のアイデンティティになっていること。三線を鳴らすと、沖縄の自然や沖縄にいる温かい人たちの顔が思い浮かびます。
三線は皮を張り替えれば新品同様になるので、沖縄の家庭では代々引き継がれていることもあり、平均すると世帯あたりの保有台数は、車の保有台数より多いとか。「おじぃ(おじいちゃん)の遺品なんです」と修理を頼まれることもありますし、戦時中には穴を掘って三線を隠したという話も聞きます。命同様に大切にされていて、ただの楽器ではないと感じます。
楽器としての魅力は、演奏するハードルが低いこと。弦はわずか3本で、複数の弦を押さえるようなコードを使った弾き方はなく、単音を弾くので、気軽に手に取って音をすぐ出せます。お店にも、小さいお子さんから80代の方まで幅広い年齢層の方が買いに来てくれます。
沖縄音楽との出合いは小学生の頃。旅行会社勤めの父が、沖縄の偉大なアーティスト、喜納昌吉(きな しょうきち)さんのファン向けの沖縄ツアーを担当したんです。その影響で、我が家でも喜納さんの音楽がよく流れるようになりました。母はCDを聴きながら料理をつくっていて、私も自然に口ずさむようになったんです。
父の沖縄出張のお土産「ちんすこう」や「星の砂」を手に取ったり、沖縄の話を聞いたりしていると、子ども心に今いる世界とは別世界に感じられ、沖縄に強く憧れるようになりました。
中高時代には沖縄ポップスにも興味が出てきて、CDをよく聴いていました。大好きだったのは夏川りみさんです。大学生になってアルバイト代が貯まると、いよいよ初めての沖縄へ。エメラルドグリーンの海の美しさに衝撃を受けて虜になり、その後社会人になってからも何回も通うようになりました。
三線との出合いは偶然でした。沖縄では海で遊ぶことが多かったのですが、あるとき、天気予報が「雨」だったことがありました。それが私の運命を変えました。
雨の日にできるアクティビティをインターネットで検索して見つけたのが、今私が働いている「ちんだみ三線店」の那覇本店で開催していた「三線無料体験」でした。初めて触れた三線でしたが、弾いてみると、ビビビと体に稲妻が走って「これだ」と運命を感じました。その日に三線を衝動買いし、東京に戻ってからは、毎日2~3時間練習に励むようになりました。体験の時に教えてくれた「ちんだみ三線店」の社長が月1回出張で上京する際に教室を開催していて、そこに習いに行くなどして、どんどんのめり込んでいきました。
当時は三線とは関係ない外資系の会社で仕事をしていましたが、仕 事中にも三線のことが頭から離れなくなり、また、社長に勧められ て沖縄で出場した唄三線の大会で最優秀賞を頂けた嬉しさもあり、 だんだん生活が三線中心になっていきました。ちょうどその頃「ち んだみ三線店」東京の練馬移転にあわせて、社長からスタッフとし て働いてみないかとありがたく声をかけられ、思い切って会社をやめ、「ちんだみ三線店」 で働かせてもらうようになりました。
KUMONの英語は自分から交渉
長文読解力は大学受験で有利に
母によると、私はちょっと変わった子だったそうです。幼稚園の頃、祖母の家で覚えた般若心経を暗唱したり、三輪車でどこまで行けるか試したくてプチ家出したり。カメラなど電子機器を分解するのも好きでした。仕組みを知りたかったんですね。
今仕事にしている三線製作も、小さい頃の「部品を扱うのが好き」からつながっているのかもしれません。また、4歳からピアノなど習い事をいくつかしていましたが、とくに楽しかったのが書道です。書道は大人になってからも続けて、師範免許をもっています。子どもの頃から伝統を感じるものが好きでした。伝統が好きというのも三線製作につながっていますね。
KUMONに通うようになったのは4歳の頃。算数から始め、小学4年で英語も加わり、両方とも中学2年まで続けました。英語を始めたいと思ったのは、私が住む近所に米軍基地があったことと関係があると思います。小学校も米軍基地を見ながら通い、教室にも、米軍基地で働くアメリカ人の子どもたちが結構いました。子ども同士の会話はもちろん英語。意味はわからなくても興味深く聞いていました。
通っていた小学校と基地内の小学校との交流もあり、そこで日本の子どもとの違いを目の当たりにしたことも影響しています。日本はルールが厳しいですが、アメリカの子どもは自由な感じ。基地内の住宅も広くてきれい。「英語を学べばあの世界に行けるかも」なんて思って。英語を学習したいと母親に交渉して、数学に加えて英語も学習できるようにしてもらいました。

くもんの先生は落ち着きのない生徒だった私に愛をもって粘り強く、丁寧に指導してくださいました。KUMONで英語を学習していたのは約5年間でしたが、大学受験の長文読解でものすごく役立ちました。KUMONの英語はイソップ物語などの昔話や偉人の伝記などから抜粋されているので、面白いんです。また、スモールステップで文章も長くなっていくので、最後はかなり長い文章も読めるようになっていたんです。学ぶのが楽しくて、文法や構文をしっかり理解できる力も身につきました。その経験があったので、社会人になって好きな映画の影響からフランス語を学び出した時も、語学学校と並行してKUMONのフランス語の通信教室で学んだほどです。
KUMONでは学力だけでなく、「自立心をもって学ぶこと」も養われたと思います。自分のペースで一つひとつ課題をクリアしていくのは、ゲームみたいでもあり、「学ぶ楽しさ」も知ることができました。
公文式学習は教科書がないですよね。三線製作も演奏活動も絶対的な教科書があるわけではありません。自分で課題に向き合い、進められるところは思い切って進め、師匠や周りの方のアドバイスを請い、前進していく。その点が三線と公文式の共通点だと感じます。子どもの頃にこうした学びのスタイルに出合えてよかったと思っていますし、それが私の様々な活動の基盤になっています。
心がけているのは、今日できることを後悔のないように、小さいことでも精一杯取り組むことです。自分の中で夢や目標はありますが、結局は毎日の積み重ねなので、目の前の小さな課題を一つひとつ克服することに集中しています。まさに公文式学習と同じですね。
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後編のインタビューから -カナダ留学で学んだ多文化理解とその後のキャリア 後編へ続く(近日公開) |









