芸名はガーナのサッカー選手「アサモア・ギャン」さんから

ナマステ~! シバモア・ゲンです。この名はもちろん芸名です。小学生の頃、テレビでサッカーの日本代表戦を見ていて、相手国のガーナのアサモア・ギャンという選手に惚れ込んだのがきっかけです。ギャン選手はアフリカ人らしい身体能力で得点をバッチリ決め、シュート後には楽しそうに踊っていて、その姿に衝撃を受けたんです。子どもながらに「ガーナのサッカーは世界を席巻するだろう」と直感し、以来ガーナのサッカーチームを応援。同時に、ギャン選手を追うようになりました。
芸名は、本名である柴田の「シバ」とアサモア選手の「モア」をくっつけて「シバモア」にしました。そして下の名前は、中学生の頃から勝手に「源一郎」と名乗っていたことから、「ゲン」に。本名は壮一郎なのですが、「壮」っていうのは自分にはさわやかすぎて、「源」のほうが野性味溢れてかっこいいなと。中学時代から、芸名を名乗るならシバモア・ゲンと密かに思っていたんです! こんなにギャン選手が大好きな私ですが、サッカーは鑑賞するのが専門で、私自身は小1から高3まで野球を続けていました。
名前の紹介が長くなりましたが、私はインドで俳優兼スタンダップ・コメディアンとして、日本ではインド大好き芸人として活動しています。最近はインドと日本を行き来していて、今は6対4の割合でインドにいるときのほうが多いですね。デリーの街を歩いていると、1日1回は声をかけられる程度に、インドでは知られるようになりました。

なぜインドかというと…皆さんは、インド映画をご覧になったことはありますか? インド映画は1本の作品の中に、笑いあり、ロマンスあり、アクションあり、何でもありで、また途中で唐突に人々が踊り出したりしてとても面白いんですよ。
私が初めて観たインド映画は『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』という作品。映画のラストでキャストたちが踊るシーンを観た時、「あの中に自分も交じって踊りたい!」と強烈に思いました。日本のインド料理屋さんでも、延々とインドの番組を流している店がありますが、「あのテレビに出られたら面白いな」なんて思ったりしながら、インドへの思いを募らせていきました。
そして初めてインド映画を観た1か月後には、インドのニューデリーの演劇学校に行っていました。当時はお笑いだけでなく演劇も学びたいと考えていたので、それならインドだ! と思ったんです。大学4年生の時でした。
「人を笑わせる」のが好きで野球と公文式に取り組んだ少年時代

私は福井市で生まれ育ちました。幼稚園の頃から人を笑わせるのが大好きで、記憶にあるのは、幼稚園バスで最後列に乗っていた時のこと。後ろを走っていたトラックの運転手さんに向かって変顔をしていたら、運転手さんが笑いながらスピーカーで「坊や、なにしてんねん!」と。バスの中でもみんなが、「あいつなにやってんねん」とゲラゲラ笑ってくれたのがうれしくて。それが私の「笑わせたい」願望の原点です。
小学校にあがってもとにかくやんちゃで、通知表はほぼ空欄。福井の小学校で「空欄」というのは最低評価という意味。母が「先生が書き忘れているのでは?」と疑問をもつくらい空欄ばかりでした…。
そして中学生の時はこんな思い出もあります。野球チームの遠征中、高速道路のサービスエリアで休憩していた時、指導者に「何かおもしろいことをやって」と言われてネタを披露したんです。すると通りすがりの人たちが、なんと投げ銭をしてくれたんです。100円玉が5、6枚だったかな。当時の中学生にしてはなかなかの小遣いでしたね。これは「お笑い」の成功体験になりました。

このサービスエリアでの件を「シバちゃん、すごかったよ」とほかの保護者から伝え聞いた母は、まんざらでもない表情でした。
両親も人を笑わせたいという私の思いは理解してくれていたと思います。どんなに通知表は悪くても、母は「あんたアホやね」の一言で終わり。勉強を押しつけられた記憶はありません。後にそのことを母に聞いたら、「何を言ってもムダだとあきらめていた」そうです(苦笑)。父も「好きなことをやれ。でもその責任は自分で取れよ」という教育方針だったので、今思えば、やりたいことをやりたいようにやらせてもらったと思います。
野球のほかに小3から始めたのが公文式でした。当時、母は公文式教室の採点スタッフをしていたのですが、その教室に通いました。ただ、私が公文式を始めたのは、母から言われたからではなく、友だちがやっていたから。私はあまのじゃくでしたから、「やれ」と言われなかったから、逆にやろうと思ったのかもしれません。そして母は私が小6の頃には採点スタッフから指導者になりました。今でも公文の教室を続けています。
公文式は、最初は算数だけ、そして途中で英語も始め、中3ぐらいまで続けました。両方とも高校のレベルまで進み、とくに英語は表彰もされ、記念の盾をいただいた覚えもあります。公文式は、間違えてもそこをやり直せばいいですし、速くやればやるだけ早く帰れるので、その感覚が楽しくて好きでした。だいたい3~4学年先を学習していたと思います。そのおかげで、中高時代は勉強をしなくても、この2科目のテストはいつも90点以上でした。でも授業態度が悪かったため、通知表は芳しくありませんでした。お笑いでクラスを盛り上げることには大いに貢献していたんですけどね。
高校で野球を頑張っていたこともあり、指定校推薦で東京の大学への進学がすんなり決まりました。当時、福井の高校生は関西エリアの大学への進学希望が多く、あまのじゃくで、東京への憧れもあった私は、あえて倍率の低い東京の大学を希望したんです。とはいえ、大学でやりたいことは特になく、学部はたまたま空いていた経営学部へ。その頃は普通に会社員になるのだろうなと漠然と思っていました。
そんな考えが一変したのは、大学1年が終わった春休み、ガーナに旅をしたことがきっかけです。19歳の時でした。
得意な英語での「お笑い」へ
人生を決定づけたガーナへの旅

このガーナへの旅が、私にとって初めての海外旅行でした。目的はサッカーのアフリカ代表を決める公式戦を観ることです。開催地が赤道ギニアだったので、本当は赤道ギニアで観戦したかったのですが、当時いろいろな不安要素があったため、大好きなギャン選手の母国であるガーナで、ガーナ人といっしょにパブリックビューイングを観ることにしました。現地の人たちと一緒に大いに盛り上がって、ものすごく楽しかったことを覚えています。
渡航前、アフリカの国は貧しくて生活が厳しいというイメージをもっていたのですが、ガーナに実際に行って、まず感じたのが「日本人よりずっと楽しそう!」ということでした。娯楽はほとんどないのに、人々はダンスバーで飲みながら、6時間ぐらい踊り続けたりしているんです。一方、日本にはいろんなものがそろっていて、遊びもたくさんあるのに、なぜ人々は苦しそうなのかな、なんて考えてしまいました。

このガーナの経験から、「人生の目的は楽しむことだ!」と悟ったんです。では「楽しい人生」とは何だろう。そう考えた時、これからの人生で大半の時間を占めるのは仕事だから、自分が楽しいと思える仕事をしようと思いました。それが小さい頃から好きだった「お笑い」だったんです。
ただ、お笑いを仕事にしている人はたくさんいますから、何か特徴がないと生き残れないなと考え、目指したのが、得意な英語を生かせるスタンダップ・コメディやトークでした。
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後編のインタビューから -言語習得には「時間」と「目的」が重要 後編へ続く(近日公開) |