銀(しろがね)も金(くがね)も玉(たま)も何せむに勝れる宝(たから)子に及(し)かめやも
万葉集に納められた山上憶良(やまのうえのおくら)の一首です。銀も金も玉も、どんな宝であろうと子どもに勝る宝はない、という子どもを愛おしむ気持ちを詠んだものです。この気持ちは時代が変わっても日本人の文化としてしっかりと受け継がれています。
子どもの成長を祝う通過儀礼
![]() |
日本には宝にも勝る子どもが産まれると「帯祝い」、「お七夜(命名式)」、「お宮参り」などの数多くの通過儀礼があります。通過儀礼には、子どもの成長への感謝とこれからも健やかに育って欲しいという願いが込められています。中でも11月15日の「七五三」は日本の各地で執り行われている最も一般的な通過儀礼です。
この「七五三」の由来は平安時代にさかのぼります。当時は子どもの死亡率が非常に高く、生まれた子どもが七歳になるまでは「人」ではなく「神」の子であり、実際にはこの世にまだ「命」が定着していない者として考えられていたようです。そのため三歳から七歳に至るまでの間に無事に成長したことをお祝いしたことが始まりのようです。
![]() |
江戸時代に入るとこの祝い方が変化し、三歳で「髪置き」(男女ともに髪の毛を伸ばしはじめる)、五歳には「袴着(はかまぎ)」(男子が袴を着けはじめる)、七歳には「帯解き」(女子が帯を締める着物を着るようになる)などの年齢に応じた儀式が行われるようになりました。当時、武家を中心に広まったこの儀式は、その後、庶民にも広がりをみせ、時期も11月吉日から11月15日に行われるようになっていったようです。
明治時代になってから「七五三」という行事として、これまで無事に成長してきたことに感謝し、今後も健康で長生きするよう神前に詣でるようになり、現在に至ります。
七五三詣(もうで)で小さな手に千歳飴を提げた子どもは何ともほのぼのとして周りも幸せにさせてくれます。正に「子宝」ですね。
![]() |
七五三祝ひの図 二代歌川豊国
弘化頃(1844-1848)
先頭は三歳髪置きの娘で、髪を結い赤い振袖を着て抱え帯をした母におぶられている。次は七歳帯解きの姉娘で、この日から付紐を用いない振袖を着て、頭には長寿の願いを込めた綿帽子を着けている。肩でかついでいるのは革羽織に黒い脚半(きゃはん)の屈強な鳶職(とびしょく)の男で、後方に女性が寄り添っている。最後は五歳男子の袴着で、裃(かみしも)を着て、ちりよけの揚帽子(あげぼうし)をかぶった前帯の祖母と手をつないでいる。お供の小僧はめでたい熨斗(のし)文様の風呂敷包を肩にかついでいる。
千歳飴に込められた願い
千歳飴は「七五三」には欠かせませんが、「鶴」と「亀」の絵が描かれた手提げ袋に入った細長い紅白の飴をイメージされることと思います。子どもの生存率が低かった江戸時代に「鶴は千年、亀は万年」の言い伝えのように子どもの長寿を願って誕生しました。甘味が貴重な時代だけに、わが子の長寿を願う親の切なる願いが伝わります。
関連リンク くもん子ども浮世絵ミュージアム