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Vol.084 2025.06.13

ジャーナリスト
株式会社office 3.11 代表取締役
井出留美さん

<前編>

「苦手」はやがて「得意」になる
苦手意識を持ちすぎず
それをバネにしよう

ジャーナリスト/株式会社office 3.11 代表取締役

井出 留美 (いで るみ)

東京都生まれ。4歳まで札幌市で育つ。父親の仕事の関係で全国を転々とし、複数の小学校に通う。奈良女子大学食物学科卒業。博士(栄養学/女子栄養大学大学院)、修士(農学/東京大学大学院農学生命科学研究科)。ライオン株式会社、JICA海外協力隊、日本ケロッグ合同会社を経て、東日本大震災時の支援食料廃棄の実態に衝撃を受け、株式会社office3.11を設立。食品ロス削減推進法成立に協力し、食品ロスを全国的に注目されるレベルまで引き上げたとして、第二回食生活ジャーナリスト大賞食文化部門(2018年)、Yahoo!ニュース個人オーサーアワード2018、令和2年度食品ロス削減推進大賞消費者庁長官賞を受賞。著書に『捨てないパン屋の挑戦』(あかね書房)、『賞味期限のウソ』(幻冬舎)など多数。

食品ロス問題に詳しいジャーナリストとして活躍されている井出留美さん。自身の誕生日である3月11日に発生した東日本大震災をきっかけに、食品メーカーを辞めて独立。現在は講演や研修の講師として国内外を飛び回っている井出さんですが、子ども時代は内気だったそうです。その実体験から、「今は苦手なことでも、大きくなれば逆に得意になるかも」と、子どもたちにエールを送ります。内気だった井出さんが行動的になったきっかけや中学時代に3年間続けていた公文式学習のこと、そして私たちができる食品ロスを減らすことに繋がる行動についても教えていただきました。

目次

    食品ロスによる経済損失は約4兆円
    この問題の重要性や解決法を提案

    私は食品メーカーにいた2008年から「食品ロス」問題に携わっています。現在は食品ロス問題に詳しいジャーナリストとして、講演や研修、執筆活動などにより、より多くの人にこの問題の重要性や具体的な解決法を提案しています。

    食品ロスとは、食べられるのに捨てられてしまう食品のこと。農林水産省のデータによると日本の食品ロスは年間472万トン(令和4年)に及びます。日本人全員が毎日おにぎり1個(103グラム)を捨てている計算です。食品ロスの問題は家庭だけでなく、レストランや食品メーカー、コンビニエンスストアにおいても発生していて、政府は昨年「食品ロスによる経済損失は年間約4兆円」と発表しました。

    なぜ食品ロスを減らさねばならないか。私は講演などでは3つの理由を挙げています。

    まず「お金の損」。食品を購入する際にお金がかかるのはもちろんですが、捨てるにもお金がかかります。日本における一年間のごみ(一般廃棄物)処理費用は2兆2,912億円に及び、うち40%、つまり9,000億円分が生ごみや食品関連だとされています。その処理費用は私たちの税金でまかなわれています。しかも生ごみや食品の重さの約80%は水です。その水を燃やすのに莫大な税金と莫大なエネルギーを使っていることになります。

    ふたつめは「環境負荷」です。日本は温室効果ガスの排出量が世界第5位です。水分を多く含む食品を焼却処理することにより、より多くの二酸化炭素が排出され、気候変動の原因となっています。

    3つめは「社会のチャンスを奪ってしまう」こと。食品を廃棄するために前述したように莫大な税金が使われていますが、食品ロスがなければ、その分を教育や雇用、福祉、医療などに充当できるはずです。

    消費者は食品の「購入代金」だけでなく、「捨てるためのお金=税金」と二重で払っていることに気づかないといけません。

    フランスでは2016年に世界初の食品ロスを減らす法律ができました。それまで日本ではこの問題はあまり注目されてきていませんでしたが、この年に、私がある国会議員からのお声がけで都内複数の会場で講演をすると、立ち見が出るほどの会場もあり、「伝えることで聞いた人の意識が変わり、行動が変わり、成果に結びつく」ことを実感しました。

    そこでその議員さんと協力して活動を進め、2019年の日本の食品ロス削減推進法の成立につなげることができました。法律ができ、社会全体の意識も変わってきたと思います。私の講演のテーマや対象者も変わりました。以前は消費者や自治体の廃棄物担当者が中心でしたが、最近は製薬会社、家電メーカー、生命保険会社、ホテル協会など多様になり、テーマも食料安全保障にまで及ぶようになってきています。食料価格が高騰し続けている時代だからこそ、「食べられるものを捨ててはいけない」と、食品ロスの問題が注目されてきていると感じています。

    食品会社で「フードバンク」に関与
    東日本大震災を機に退職し独立

    私が現在の活動に進むことになったそもそものきっかけは、アメリカに本社がある食品会社で「ひとり広報室長」をしていた頃に、「フードバンク」に関わったことでした。フードバンクとは、「商品としては流通できない食品を引き取って必要な方に届ける」組織や活動のこと。本社では30年近く前からフードバンクに寄附をしています。2008年に本社のCSR部長から「日本にもフードバンクがある」と、ある団体を紹介され、その団体と一緒に活動することになりました。

    食品会社で「ひとり広報室長」として働いていた頃

    当時、フードバンクという言葉はほとんど知られていませんでした。ちなみに似た言葉で「フードドライブ」という活動もあります。常駐のオフィスがあって、車や職員が要るフードバンクに対し、フードドライブはどこでもできる活動を指します。例えば期間を決めて社内に呼びかけて食品をオフィスに持ち寄ってもらう、というような活動です。運動するついでに食品を持ってきてもらう、という活動をしているフィットネスクラブもあります。

    アメリカでは「スタンプ・アウト・ハンガー」といって、郵便配達員が毎年5月に配達のついでに食品を集める活動を、1993年頃から行っています。学校が夏休みに入り、給食がなくなるために経済的に困窮している家庭のお子さんを支援するのです。

    私はフードバンクについて他社と意見交換したりするほか、食育授業や講演、取材対応など「ひとり広報」として、多忙ながらも充実した日々を過ごしていました。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災が大きな転機となります。

    震災発生後、私は関連省庁などと連絡を取り合い、会社の支援物資を手配し、被災地に向かいました。ところが「人数分に少し足りないから配らなかった」といった理由で支援物資が廃棄されていたのです。この現実に衝撃を受け、本当に大切なことは何か、考えさせられました。そして、会社の仕事は大好きでしたが、思い切って退職を決意。しばらくはボランティアをしようと思っていたのですが、仕事を次々いただくようになったため、個人オフィス「office3.11」をつくって活動するようになりました。

    5歳の頃から食に関心
    公文のおかげで数学トップに

    札幌で暮らしているとき、父と

    私は幼い頃から「食」に興味がありました。記憶にあるのは、5歳頃風邪をひいた時に、母が葛湯(くずゆ)を作ってくれたことです。多分、葛ではなく片栗粉で代用したと思うのですが、それを水に溶くと、最初は液体なのに火にかけるとゲル状になる。それが不思議でしたね。カップケーキ作りを手伝ったり、母の料理本や、ゼリーの素についているリーフレットもよく読んだりしていました。白い画用紙に青いボールペンで喫茶店のメニューを手作りしたこともあります。小5のときは料理クラブに所属していて、その頃の将来の夢は給食の調理員。当時はNHKのテレビ番組「きょうの料理」もよく見ていました。

    銀行員の父は転勤が多く、4歳ぐらいまで札幌で過ごした後、東京へ。幼稚園はふたつ、小学校は3校経験しました。中学校だけは3年間転校せずに、福岡県で過ごしました。高校もがんばって県内の進学校に合格したのですが、まもなく父が東京に転勤することに…。この時は父に単身赴任してもらい、1年間九州の高校に通学した後、高2から関東の高校に転校しました。

    慣れたと思ったらまた転校、という生活が続き、新しい小学校ではその土地の言葉をしゃべれないといじめられることもあって、正直つらかったです。とくに東京には馴染めず、「絶対に東京の大学には行かない」と決め、高校時代に古文に登場した奈良や京都に憧れて奈良の大学へ。食関係の仕事をしたいと考えていたので、家政学部食物学科に進みました。

    小中学生の時は書道やピアノを習い、中学の3年間は、自宅から徒歩30秒で行ける公文式教室に通っていました。学校だと学習進度は一律ですが、マイペースで進められる公文式は私に合っていたと思います。丸を付けられるのも認められたと感じてうれしかったですね。公文式で学習していたのは数学だけでしたが、そのおかげか国立大学受験に必須の共通一次試験(当時)で、数学は満点がとれました。

    私の講演は「数字」と「固有名詞」が入るので、具体的でわかりやすいとよく言われるのですが、数字を記憶するのは得意なんです。日本の食料廃棄の量や金額など関連データの数値を、原稿を見ずに言えるのは、もしかしたら公文式で数学を学習していたおかげかもしれませんね。

    父は転勤のたびに職位が上がり、46歳で念願の支店長になりました。ところがその5か月後に急逝。私は元々内向的な性格でなかなか実行に移せないタイプでしたが、父の死がきっかけとなって、いつどうなるかわからないのだから、「今、行動しなくては」と思うようになりました。就職が決まった後、1か月かけて北海道を自転車で1周したこともあります。

    大学卒業後は大阪の食品メーカーに就職したかったのですが、父が亡くなったので実家がある千葉に戻り、都内に本社のある日用品メーカーに就職しました。スキンケアの部門に配属になり、目尻のシワの調査を担当。100人を集めて画像解析をしたところ、年齢が高くなるほどシワの個人差が大きくなることが判明し、頑張れば維持や改善するという積み重ねの力のすごさを実感しました。「最初は全然差がつかないけれども、あるときから差がつく。それはシワだけでなく、勉強や仕事にも言える」と感じました。まさに公文式もそうだと思います。

    後編を読む


     

     

    後編のインタビューから

    -「やってきたこと」は確実にどこかにつながる
    -生きている限りすべてが学び
    -食べ物に敬意を払い 働きやすい世の中になってほしい

    後編を読む

     

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