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Vol.018 2015.02.20

教育史学者 沖田行司先生

<前編>

成長個性的多様
子どもたちが伸びていくためにこそ
「自ら学ぶ力」を育てる

同志社大学大学院教授 教育史学者

沖田 行司 (おきた ゆくじ)

1948年京都府生まれ。同志社大学卒業後、高校教師として2年間勤務後、同大大学院文学研究科へ。その後、文学部助手、専任講師・助教授を経て文学部教授(文学博士)に。改組により2004年より社会学部教授。ハワイ大学・中国人民大学の客員教授も務める。

「教育は時代を映しだす鏡」。そう話す沖田先生は、教育文化史・思想史の研究者として、江戸時代の寺子屋や藩校をはじめ、明治以降の近代教育についても研究を続けています。ご自身を「自由奔放な青春時代」「真の学びに目覚めたのは大学院に入ってから」と笑いますが、その実体験からも「人の成長は個性的で多様」「教育も多様であるべき」と、現代の画一的な教育に疑問を投げかけます。沖田先生のこれまでの研究から見えてきたもの、これからの日本の教育に必要なものとは…、をうかがいました。

目次

子どもの成長は個性的で多様、だから「落ちこぼれ」はいない

教育史学者 沖田行司先生

長年、学生たちと接していて、ここ数年、とくに強く感じることがあります。それは、大学入学と同時に燃え尽きた状態になって、学ぶ意欲が見られない学生が増えたことです。ほかの大学の先生と話すと、このことはうちの大学だけではなく、多くの大学に共通しているようです。大学生ですから、「学びたい」という気持ちがあるのが自然なのですが、そういう気持ちではない学生もいる。なぜか…。

大学も含めた、いまの学校教育のシステムに問題があるのではと思っています。端的に言えば、教育現場には「教える仕掛け」はたくさんあっても、学生や子どもたちの「もっと知りたい」「不思議だな?なぜ?」という、本来の学びにつながる気持ちを育てていないように思います。つまり、皆、先回りして教えてしまっているのです。その意味で、私は教育というのは、「待つ教育」(後述)であるべきだと考えています。

そもそも子どもの成長は個性的で、多様な発達を見せてくれます。しかし、明治以降の近代教育以降、一斉授業が行われるようになりました。一定の時間で一定の量を教えねばならないので、どうしてもついていけない子たちがでてきます。さらに、子どもを「一人ひとり」ではなく、「1年生」「2年生」という「群」としてとらえるので、ついていけない子を「2年生の修了レベルに達していない」と、「落ちこぼれ」という眼で見てしまう。

ですが、個性的で多様な子どもの成長からすれば、それがその子の発達レベルなのですから、「達していない」「おくれている」というのはありえません。私の研究領域である「江戸時代の教育」からすると、寺子屋は一斉授業ではなく、それぞれに合った内容を学んでいます。江戸時代の人たちは「子どもはそれぞれ異なる個性と能力をもっている」ということを知っていたのですね。

「この子は落ちこぼれ」という先入観で接すると、子どもはそれを肌で感じ、学ぶ意欲をなくしてしまいます。子どもが秘めた能力を発揮できるように、その子の個性を理解して接することが大事です。そのためには手間暇かけねばなりませんが、現代は、教育も経済法則と同じになってしまい、手間暇をかけず効率優先になってしまっているような気がします。

学校の成績が芳しくなかった息子さんに沖田先生がかけた言葉とは?

「私の子だから大丈夫」信頼のまなざしと言葉が子どもを伸ばす

教育史学者 沖田行司先生

さきほど「待つ教育であるべき」とお話しましたが、いまの時代「待つ」のはなかなかむずかしい。それは、わたし自身も同じです。それを自覚しつつ、わが家の場合をお話ししましょう。わたしの研究の関係で、1年間ほど家族でアメリカで暮らしていたことがあります。帰国して息子たちは日本の中学校に通うのですが、次男が学校になじめず、成績も良くない。これは困ったなと悩みながらも、無理に勉強をさせることはしませんでした。

そのかわり、「わたしの子なんだから大丈夫。絶対に」と、次男に言いつづけていました。自信をもたせるためです。言い換えれば、子どもに対する信頼ですね。本人が気づいて、自ら学ぼうとするまで待つのです。じつはそのころ、息子は5段階評価で1と2ばかりでしたが、「父さんは1をもらったことないから、お前はすごいな」なんて言ったりして(笑)。

子どもは子どもで、その成績に落ち込んでいるし、反省もしているのです。親の言葉でその気持ちをさらにマイナスにするのは避けたいと思っていましたから。その後、本人なりにがんばって、息子はふつうに高校に入り、現役で国立大学の工学部に合格。大学院も卒業し、ちゃんと社会人になっています。

ただ、「待つ」と「ほったらかし」は違います。「待つ」というのは、子どもにいつもまなざしを向けていること。つねに両親が見守っていてくれるとわかれば、子どもなりに考え、どうすべきかを判断します。たとえば、息子が小学校入学前のころのこと、「こんど車を買おうと思っているけど、どんなのがいいと思う?」と相談しました。すると、彼は彼なりに考えて、「こんなのがいい」と答えてくれました。子ども扱いをせず、ひとりの人間として意見を聞くことで、子どもは自分の意見を考える習慣がつきます。考えることは、学びの大きなファクターですから、この接し方は大切だと思います。

日本で初めて教育に絵画を使った江戸時代中期の儒学者、江村北海(えむらほっかい)は、「教えすぎてはいけない」と説いています。たとえば犬の絵を見せながらストーリーを話し、子どもたちが「もっともっと」と話の続きを聞きたがったらやめる。それにより、子どもの「もっと知りたい」という学習意欲を促したわけです。同じく江戸中期の儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)も、「少し教え、あとは考えさせる」と説いています。これらは現代にも活かせそうですね。

高校生時代、親戚のお寺の本堂でビートルズを大音量で流した理由とは?

お寺の本堂でビートルズ!自由奔放な高校時代をすごす

教育史学者 沖田行司先生

私が教育に関心をもつようになったのは、2つの原体験があったからでしょう。ひとつめは高校生のころ、父の本棚から1枚の半紙を見つけたことです。そこには父の筆文字で、こう記されていました。「これからの日本は子どもの教育に大きな期待を抱かなくてはならない」。書いたのは第二次世界大戦の終戦時だったようです。

戦争で何もかもなくなった日本に必要なのは、子どもの教育で、まちがった方向に進むような国にしない人に育てなければならない――。 父がそう考えるに至った背景には、知識人と呼ばれる人たちが戦前と戦後で、てのひらを返すようにコロッと主張を変えたことがあったようです。実直を絵に描いたような警察官で武道家でもあった父は、信念があり正義感の強い人でしたから、知識人たちの急変貌が我慢ならなかったのでしょう。

もうひとつの原体験は、小学校時代に映画『二十四の瞳』を観たことです。とても感銘を受け、自分でも教育映画を作りたいと思い、脚本を書いたりしましたね。本も好きで、外遊びをするよりも家で読書をすることが多かったですかね。かといって、ずっと家にいるわけでもなく、からだを動かすのが好きで、小学生・中学生では柔道を、高校ではラグビーをやっていました。

高校時代は三島由紀夫の文学に没頭したこともあります。大学生になってからですが、ダメもとで三島さんに手紙を書いたら、どういうめぐり合わせか、直接会ってもらえることになりました。ビールを飲みながら2時間ほど話しましたが、「文学青年はきらいだ」と言われ面くらったこと以外は、気持ちが高揚しすぎて何を話したのかよく憶えていません。でも、強烈な体験でしたね。

こんなふうに話すと、まともに育ってきたように見えるでしょうが、かなり自由奔放というか、傍若無人なこともしでかしました。いま、ふり返れば、よくまぁ、あんなことを!と、自分であきれるくらいです。たとえば高校1年のときのこと。実家にいるのが窮屈になって、親戚のお寺さんに入ってそこから高校に通っていた時期がありました。本気でお坊さんになるつもりだったのですが、しだいに修業が辛くなって…(笑)。

それでも、自分から「お坊さんになるのをやめます」と言うのがいやで、それなら追い出されるようにと、寺の本堂でビートルズを大音量でかけたり、キリスト教の聖書を経本のとなりに置いたりと、いたずらの域を超えたことをしていました。しかし、和尚さんは寛大で怒らなかった。なぜ怒られないのか?と、そのときは疑問で頭のなかがいっぱいだったのですが、和尚さんはわたしの気持ちなどお見通しだったのですね。後年そのことがわかり、このこともいい経験だと思えるようになり、また深い学びにもなりました。

そうして結局、実家にもどり、こんどは大学を受験しようと思い立つのですが、それまで授業をまともに聞いていなかったので正直焦りましたね。ただ英語は好きで、字幕付きの洋画もよく観ていたので、英語には自信がある。それで、入試でも講義でも、英語により重きがおかれている同志社大学に入ることができました。

そして、入学した大学で「師匠」と呼べる先生(後出/後編)に出会い、それまでとは打って変わって学ぶようになります。このインタビューの冒頭で「子どもの成長は個性的で多様」とお話ししましたが、私自身の経験からもそう言えます。もともと受験勉強に青春を費やす気は毛頭なく、そこそこの学校に入ればいいと思い、スポーツや文学を自由に楽しんでいたわたしが、「師匠」との出会いで、学びに目覚める一歩をふみだせたのです。


教育史学者 沖田行司先生  

後編のインタビューから

-大学を卒業し高校教師となった沖田先生、生徒たちを目の前にして湧いてきたある疑問とは?
-「吉田松陰は弟子を叱るときは、その前に必ずほめていた」という事実
-沖田先生が考える「グローバル人材」「国際人」の要件

 
 

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