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Vol.043 2017.05.12

海洋冒険家 白石康次郎さん

<前編>

自分の幸せのために
思いの方向に舵を切ろう

海洋冒険家

白石 康次郎 (しらいし こうじろう)

1967年東京生まれ鎌倉育ち。神奈川県立三崎水産高校在学中に、単独世界一周ヨットレースで優勝した故・多田雄幸氏に弟子入り。1994年には史上最年少(当時)となる26歳で、ヨットによる単独無寄港無補給世界一周という偉業を成す。その後も数々のヨットレースで活躍し、2016年には最も過酷な単独世界一周ヨットレース「ヴァンデ・グローヴ」にアジア人として初出場を果たすも無念のリタイア。ヨットレーサーとしての活動以外にも、子どもたちと海や森で自然学習を行う体験プログラムも主宰する。

数々の国際的なヨットレースに挑む一方で、子どもたちに自然の尊さと夢の大切さを伝え続けている海洋冒険家の白石康次郎さん。子どもの頃に抱いた「船で海を渡る」という夢に向かって、さまざまな荒波を乗り越えてきました。夢をかなえる力、そして旺盛なチャレンジ精神と行動力の源泉についてお話をうかがいました。

目次

出場するまでに約30年!
世界で最も過酷といわれるヨットレースにチャレンジ

海洋冒険家 白石康次郎さん
©YOICHI YABE
海洋冒険家 白石康次郎さん
©YOICHI YABE

2016年の秋、単独無寄港で世界一周を目指すヨットレース「ヴァンデ・グローヴ」で、泣いて帰ってきました。途中でマストが折れ、リタイアしたんです。「ヴァンデ・グローヴ」は、ヨットが国技のフランスのレース。だから参加者はほぼフランス人。そこに今回、僕が初のアジア人として参加しました。侍の格好をしてスタートしたら大ウケでしたね。このレースは4年に1度開催されるので、次回は2020年。それに向けて準備を整えているところです。

船の名は、「スピリット・オブ・ユーコーIV」。師匠の故・多田雄幸さんの名をつけた4代目で、全長60フィート(約18m)、マストの高さは28mでビルの8階くらい。ふつうは10人くらいで扱う大きさの船を一人で動かします。

リタイアを機に、今、日本にその船を持ってきています。日本にこれほど大きいヨットが来ることはなく、「乗ってみたい」という人も多いので、これからしっかり整備した後、全国各地をまわって子どもたちと“遊ぼう”と思っています。あとはスポンサーを集めて、次の「ヴァンデ・グローヴ」に備えたい。今度は完走したいですね。

このレースに出るには、新艇で3億5千万円、中古で2億円くらいする大きなヨットを手に入れて、いくつかある大西洋横断レースで完走することが条件。僕はこれを達成するのに30年近くかかっています。

なぜヨットに乗るようになったか? 最初は「船で外国に行ってみたい」という「好奇心」でした。僕のエネルギー源はすべて「好奇心」。これは今でも変わらない。小さい頃から、やってみたい、行ってみたい、という思いが強かった。当時、テレビで世界の紀行番組を見て「世界には面白いところがたくさんあるんだ。いろんなところに行ってみたいなあ。どうせなら船で海を渡ろう」と思っていました。

子ども時代に白石さんがお父さんから言われていた唯一の言葉とは?

子どもが言うことに賛成も反対もしなかった父
ただ一言、「自分で決めろ」

海洋冒険家 白石康次郎さん

子どもの頃は、山や海で遊びまくっていました。学校も楽しかった。校門が開く前から待っていて、カバンの中にはグローブしか入っていなくて、勉強はまったくしなかった。小中学校時代は、遊びっぱなしでした。鎌倉の八幡宮が遊び場で、学校帰りに「ドロケイ」やったときは、電車で江ノ島まで逃げて、いつ終わったのかも、誰が犯人かもわかんなかったりしてね(笑)。

小学生のときは廊下に机ごと出されたこともあります。立たされたんではなく、机ごと。僕がそこから「先生質問!」って手を挙げると、同級生が面白がって、廊下に出たがるんです。僕は廊下に出されても、文句も言わずいじけることもなく、逆にその状況を楽しんでいた。これは今もそう。ヨットの上でスコールが来たら、マストに溜まった雨水で流しそうめんしようかな?なんて考えた。いつも「どうしたら楽しいか」を考えています。子どもと変わらないでしょ。

母は僕が小学1年生のときに亡くなり、昭和1ケタ生まれの父と、明治生まれの祖母、兄と妹で暮らしていました。父の方針は、「おれは子どもの邪魔はしない。子どもっていうのは親の言うことを聞かない。親のすることをする」。これはずっと後になって、ある雑誌に載っていた父の言葉ですが、まさにその通り。僕は一度も反対されたことはない。その代わり賛成されたこともない。「自分で決めろ」以外に言われたことはありません。

人の悪口や愚痴も一度も聞いたことはなかった。兄も妹も同じように育ち、みんな夢をかなえています。親は子どもたちを尊重してくれていた。それでのびのびと自分を発揮できたんじゃないかな。そのことにとても感謝しています。

水産高校での教育とは?

板子一枚下は地獄
水産高校時代の厳しさが今の自分を育ててくれた

海洋冒険家 白石康次郎さん
©YOICHI YABE

中学卒業後は県立の水産高校に進みました。船に乗って外国に行くにはどうしたらいいかなと探して見つけたんです。この学校では、3年生になるとマグロ船でハワイに行けるんですよ。国立大学附属中から水産高校に行くのは学校創立以来の“快挙”だったそうで。担任の先生は悩んでいたけれど、「先生が行くんじゃない。僕が行くんだ」と押し通しました。

水産高校は厳しかったですよ。先生は現役の船乗りや元船乗りで、百戦錬磨の荒海を乗り越えてきた人たちですから、説得力もあったし、気迫もあった。そんな先生方には、海の上で生きていくために知っておかねばならないことを徹底的に教えてもらいました。

水産高校が普通の高校と大きく違うのは、グラウンドは太平洋、教室は船だということ。海は人間が作り出したものではありません。僕らはそこに出て行くのだから、厳しいのは当然。板子一枚下は地獄ですから。一人がミスをすると、大きな危険や損害につながります。自分がケガするのは自業自得。でもみんなに迷惑がかかりますし、人にケガをさせてしまう場合だってあります。それは絶対にしてはいけない。そうしたことを徹底的に教わりました。

僕はこれまでにヨットで世界を5周していますが、幸いなことに大きなケガはしたことがありません。それは水産高校での厳しい教育があったから。先生方にはとても感謝しています。厳しいから愛情がないわけではないし、優しいから愛情があるわけでもない。教育にはどちらも必要なのだと思います。

その厳しさに「こんなはずでは……」と思ったことはありません。僕は水産高校にラクをしようと思って入ったわけではないですから。自分で志願して、自分のやりたいことに近づくために入ったんです。今でもそうですが、僕は常に、自分の思いの方向に舵を切っています。思いと発言と行動がすべて一致している。

どんな荒海だろうが、僕の求める幸せのためにやっていること。当然ハードルは高い。それを乗り越えるためには、スキル、体力、精神力が必要。そうやって一つひとつクリアしていっているんです。

関連リンク白石康次郎さん公式サイト


海洋冒険家 白石康次郎さん   

後編のインタビューから

-人生を教わった師匠との出会い
-白石さんがヨットに乗る理由とは?
-白石さんのこれからの夢とは?

 
 

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