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Vol.056 2018.07.13

朝日新聞社
編集記者 逸見那由子さん

<前編>

人生成功失敗もない
周囲と競わず
自分のペースで進んでいこう

朝日新聞社 編集記者

逸見 那由子 (へんみ なゆこ)

1985年神奈川県生まれ。地元の中学を卒業後、スイス公文学園高等部へ進む。在校中は、短期フランス留学や、ボスニア・ヘルツェゴビナへのボランティアツアーなどを経験。卒業後はフェリス女学院大学へ進学。大学3年時に交換留学生として北京の清華大学へ留学。2009年に朝日新聞社に入社。岐阜と岡山で取材記者を務め、本社に異動、編集記者に。

朝日新聞社に記者として入社し、地方総局での取材記者を経て、現在、本社で編集記者として活躍されている逸見那由子さん。逸見さんが新聞記者になったのには、どんなきっかけがあったのでしょうか。高校時代を過ごしたスイスでの生活やそこで得た学びなどについてもうかがいました。

目次

世の中に問題提起ができる新聞記者の仕事

逸見那由子さん

私は編集記者になって5年目になります。編集記者の仕事は、取材記者が書いた記事を読み込み、扱いの大きさやレイアウト、見出しを決めていくことです。世の中で注目されていることを選んで伝えるという役割があります。見出しのスペースには制限がありますし、いろいろなルールもあります。その中でどう表現するか、どの記事をどんな大きさで扱うか、見出しを横にするか縦にするかなど、記事がより魅力的になるよう考えます。

入社して5年間は地方の総局で取材記者をしていました。新聞社に入ると、まずは地方に勤務して警察周りなどを担当します。事件や事故が起きると現場に行き、写真を撮り、警察官にその原因などを取材するのです。地元の方に話を聞くこともあります。亡くなった方がいる場合は、その方の写真を探すのも仕事です。

なかなか慣れなかったのは、「夜討ち朝駆け」と呼ばれるアポなし取材です。勤務後や出勤前を狙って警察幹部に会いに行き、事件の見通しを聞き出していくのです。事件が起こると、ほぼ毎日していましたね。

ほかに裁判を傍聴して原稿を書いたり、「街ダネ」といって地域のホットニュースを書いたりもしていました。岡山にいたときは行政を担当していたので、政治家への取材や選挙取材も経験しました。

好奇心が強い私はこの仕事が好きですが、もちろん楽しいことばかりではありません。時には人の心に土足で入っていかねばならないときもあり、抵抗を覚えることもあります。でも、新聞で伝えることで問題提起ができたり一石を投じたりできる。その先につながるので、「これも大事な仕事」と自分に言い聞かせつつ、悩みながらも取材を重ねてきました。

逸見さんが社会的な問題に目を向ける素地を養った子ども時代

家では平和教育や人権などの社会問題が話題に

逸見那由子さん

実家は浄土真宗のお寺です。住職である父は、以前はテレビ局勤務で、母は結婚するまで中学の英語教師でした。お寺は地域の拠点でもあり、カナダ人の若いカップルやアメリカ人の女の子のホームステイを受け入れていました。実家のある横須賀は、外国人は珍しくない土地柄ですが、私は特段外国へ憧れたり、英語が大好きだったりしたわけではありません。

母によると、私は人と違った発想や行動をする変わった子だったようです。自分では覚えていませんが、急に思いついて新聞紙で洋服をつくってみたりしたとか。中学ではテニス部のほか生徒会活動もしていました。でもどちらかというと、表舞台に立つよりスポットライトを浴びる人を支えたいタイプ。これはいまの仕事にも通じていますね。

子どものころに抱いていた将来の夢は、最初は学校の先生。次はナイチンゲールの伝記を読んで、看護師に憧れました。その後、テレビで「国境なき医師団」の活動を知り、世界を駆け巡る医者になりたいと思うようになりました。そんな私に、母は「だったら海外に行ってみたら」と、勧めてくれたのがスイス公文学園でした。

父と母は、私が中学1年のときにスイス公文学園を現地まで見学に行きました。そして「ぜひこのすばらしい学校に通わせたい」と思ったそうです。スイス公文学園の教育に賛同した両親は、私に続き弟も入学させたほどでした。

父は「自立した人間」になることを望み、母は「勉強ができる子に」というより、「生きる力のある子に育てたい」と思っていたようです。「こうでなくては」と決めつけるのではなく、子どもたちが意見を言うと「こんな見方もあるよ」と教えてくれる両親でした。

母は広島出身だったこともあり、両親は私たちきょうだいが小さいころから、毎年原爆ドームへ連れて行ってくれて、日ごろから平和教育や人権などについて話題にしていましたね。そうした家庭環境が、社会的な問題に目が向く素地をつくってくれたのかもしれません。

スイス公文学園での生活とは?

スイス公文学園時代に実感した
「違う意見を聞く」大切さ

逸見那由子さん

スイス公文学園での生活は、今でこそ「行ってよかった」と思いますが、通学していた当時はけっこうきつかったですね。最初はいろんなことが新鮮でしたが、まず、現地の食事に慣れなくて……そして厳しい規律。今でこそ規律は大事だと理解できますが、当時は「なんでこんなことやらなきゃいけないの?」と反発していました。

スイス公文学園には、「ここに入りたい!」と思って入学する子がほとんどで、みんなしっかり勉強してきていました。でも、当初の私は成績が振るわずついていけない。宿題も多くて大変でした。でもそのうち、一生付き合えるような友だちもできて、今思えば得がたい経験をしたことが今の私につながっているのだと思います。

在学中、忘れられない出来事がありました。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロです。授業中、教室のテレビでその映像が流れ、それを見て泣く人もいました。その後、大量破壊兵器を開発しているとしてイラク戦争が始まります。「正義の戦い」という空気がありましたが、いろいろなメディアに触れているうちに、それは本当に正しいことなのかと、考え込みましたね。

今の私の仕事にもつながることですが、ある出来事に対し、果たして「それが正しい」「こうするべきだ」と言えるのかどうか。自分と違う意見もよく聞くことが大切ではと強く思うようになりました。

スイス公文学園では授業で「ディスカッション」をする機会があるので、異なる意見を尊重する訓練ができたと思います。寮生活をしていたことも、人との付き合い方を学ぶきっかけになりました。イヤなことがあっても怒るのではなく、どうしたら相手とコミュニケーションをとれるかを考えるようになったのです。思春期にこうした経験ができたからこそだと思います。

私はスイス公文学園入学前には公文式学習をしていなかったので、スイス公文学園の入学後から学び始めましたが、小さいときからやっていればよかったと思いました。でも私がそうだったように、成長してからの学習でも基礎を復習できるのが、公文式の良いところだと思います。

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関連リンク 朝日新聞社


逸見那由子さん  

後編のインタビューから

-逸見さんが新聞記者を目指すことになったきっかけとは?
-逸見さんが考える新聞の魅力とは?
-逸見さんから子どもたちへのメッセージ

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