「名刺代わりになる仕事」で自分発の仕事を増やす
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大学卒業後は大手電機メーカーに就職しました。大学院に進んでこれ以上数学を続けたくないし、音楽では食べていけないし、ゲームクリエーターになりたいと思って受けたゲーム会社は全部落ちてしまうし…。それで内定をもらったうちの1社にシステムエンジニアとして就職しました。
不満はそれほどなく、防災システムなどを開発していていたのですが、そうした開発は試験期間が長く、どんどん開発をしたい私の性に合いませんでした。ネットバブルの時期だったこともあり、1年ほどで知人のITベンチャー企業に転職。仕事はおもしろく、儲かっていたのも束の間、業績はすぐ下がり、半年で退社することに。しばらく失業保険をもらい、音楽制作や塾の先生などをしていました。まもなく、プログラムを使った表現をきちんと学ぼうと、尊敬していた先生のいる岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)へ入学。これが1つの転機になりました。
同級生たちの製作に対するスタンスや生き様に、大きなカルチャーショックを受けたのです。例えば、「新しいコミュニケーションツールを発明しなさい」という課題に対し、私は叩く強さでフォントのサイズや色が変わるキーボードを作ろうとしていたのですが、ある人はGoogle Glass(グーグルグラス)のようなメガネタイプのウェアラブル端末を作ろうとしていたり、またある人は摂取している人だけが会話が出来るピルのアイディアを提案していて、発想のレベルが全然違うことにおおいに刺激を受けました。課題に対するリサーチの重要性も学びました。ここで、アイデアや発想を鍛えられたと思っています。
卒業後は、放浪の旅に出ようかというくらいアテがなかったのですが、それを聞きつけた人から東京芸術大学の仕事をいただきました。その縁で今一緒にライゾマティクスを主宰している石橋素氏と出会い、仕事の幅が広がりました。さらにその後、理科大のメンバーと再会して、現在の形に至っています。
今振り返ると、IAMASを卒業して間もないうちから、いい仕事に恵まれたと思います。例えば、私が初めて関わったダンス作品は、15都市をツアーするような評判の作品となりました。ただ、こうした仕事はすべて他人が企画したものです。私には自分の企画で表現したいという思いがありました。でもなかなか機会がなく、それで冒頭にお話しした顔筋肉センサーをYouTubeにアップしたというわけです。自分で考え自分で作り、自分で出演して、「自分の名刺代わりになればいいな」と。そこからは自分に直接仕事が来るようになり、自分で企画する作品も増えました。
それまでは表現者というよりも“職人”としての仕事がメインで、スキルが一番重要でした。職人仕事は好きなので今でもやることは多いですが、今は、自分で企画して資金調達も含め、プロジェクトを動かすことが仕事の中心になっています。