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Vol.060 2019.02.15

環境省対馬自然保護官事務所
堺真由子さん

<前編>

遠回りしたとしても
「好き」な気持ちを大切に
一歩を踏み出せばは近づく

環境省対馬自然保護官事務所

堺 真由子 (さかい まゆこ)

神奈川県生まれ。地元の小・中・高校を卒業後、東京農業大学農学部畜産学科(現・動物科学科)の畜産物利用学研究室で、乳酸菌などの研究に従事。卒業後、対馬野生生物保護センター(環境省対馬自然保護官事務所)の事務補佐員として勤務する。

朝鮮半島まで約50km。「国境の島」といわれる長崎県・対馬には、天然記念物のツシマヤマネコをはじめ、この土地のみに生息する生きものがたくさんいます。それらを保護する対馬野生生物保護センターで、普及啓発を担当している堺真由子さんは、大学は畜産学科で学び、食品会社に内定が決まっていました。しかし自分の内なる声に気づき、一から就職活動をやり直します。縁もゆかりもなかった対馬で働くことを決めたのには、どんな背景や思いがあったのでしょうか。ツシマヤマネコや対馬の生きものへの思い、対馬での生活についても、いきいきと語ってくれました。

目次

興味深い対馬特有の生きもの
子どもたちにわかりやすく伝えたい

堺真由子さん

対馬って、蛍がほんとうにきれいなんです。これが“残したい景色”というものなんだなと、身をもって感じました。私は生まれ育った神奈川県から対馬に来て、もうすぐ2年を迎えます。対馬には本州に生息する生きものだけでなく、対馬独自の自然があり、生きもの好きにとってはとてもおもしろい場所です。

対馬ではツシマヤマネコが生態系の頂点です。減農薬でお米を栽培することで、ヤマネコのえさとなる生きものを増やすことができます。減農薬で作られている“ヤマネコ米”はそんな取り組みのひとつです。ヤマネコが生息できるということは、豊かな環境があることの証で、ヤマネコを守ることは環境を守ることにつながります。

ツシマヤマネコ

福馬(対馬野生生物保護センター提供)

かつて300頭と推定されていたヤマネコは、減少の一途をたどり、1998年には絶滅危惧種に制定されました。保護活動で減少のスピードが緩やかになったものの、現在70~100頭。減少理由のひとつが交通事故です。対馬野生生物保護センターでは、事故などでケガをしたヤマネコを保護して治療し、野生で暮らせるか確認してから発見された場所の近くで放しています。センターでは「福馬」という名のオスを飼育し、来館者に公開しています。(※2019年1月現在、体調不良のため公開休止中)

ヤマネコを守るためには、何より「知ること」が大切。そのため、イベントの企画運営や季刊誌「とらやまの森」の発行、展示パネルの制作・掲示などをするのが私の仕事です。中でも力を入れているのが、対馬の子どもたちへの啓発活動で、小中学校で「ヤマネコ教室」を行い、ヤマネコの特徴や対馬特有の動植物についてお話したりしています。また、ケガをしたヤマネコを見つけたら必ずセンターに連絡するようにお願いすることもあわせて行っています。

日々の活動は故郷に誇りをもってもらいたいと思いながら、わかりやすく伝えることを心がけています。最近は、イトトンボの雄と雌の見分け方など、いろいろな生きものの質問を受けるようになりました。子どもたちの生きもの全体への関心が高まっていると感じ、うれしくなります。今後も学校の先生方と連携して、子どもの興味を広げるお手伝いができればと思います。

堺さんの原点となった神奈川県茅ヶ崎での生活とは?

自然に囲まれて過ごした幼少期
中学時代には牧場で職場体験

とはいえ、私はこれまで対馬とは縁があったわけでも「島暮らし」がしたかったわけでもありませんでした。ただ、生きものには小さいころから関心がありました。

堺真由子さん

自然が残る神奈川県茅ヶ崎市で生まれ育った私は、アリの巣穴をほじくったりセミの抜け殻を集めたり、自然の中で遊ぶことが好きな子どもでした。そんな私の様子を見ていた母は、近所にあるごく一般的な幼稚園ではなく、遠方にある自然遊びを重視する幼稚園に通園させてくれたり、田植えなど自然が絡んだイベントにも積極的に連れ出してくれたりしました。じつは姉も生きもの好きで、生物系の学校を出て動物関係の施設で働いています。小さいころのことはあまり覚えていませんが、そういった経験が今の仕事につながっているのかな、と思います。

小学生の頃、姉の中学に遊びに行って親しくなった先生が海へ魚獲りに連れて行ってくれるなどしてくれました。その先生の影響もあり、私の生きもの好きに拍車がかかりました。中学生のときの職場体験は、自ら牧場を選択。一方で私は「食べること」も大好き。そこで、高校は普通科か農業高校かで悩みましたが、中学の先生のアドバイスで、選択肢が多い普通高校へ進学することにしました。

大学受験の頃になると、管理栄養士に興味が出てきたり、畜産もいいな、獣医さんになろうかな、と将来の進路に迷いが生じ始めました。結局、生きものと食べものとのつながりを深く学びたいと、農業大学の畜産学科へ進みました。

公文との出会い、今に繋がる公文で得た習慣とは?

KUMONで身に付いた「生活の中に勉強時間を」という習慣

堺真由子さん

私がKUMONに通うようになったのは、小2の頃です。姉が通っていたことも影響していますが、自然にどっぷり浸かった生活の中、勉強のほうを心配していた母のすすめでした。母によると、私は小学校に入学後、「みんな字が読めるのに、なぜ自分だけ読めないのか」と、悩んでいたらしいんです。

小2で算数を、小6で英語も始め、中学生になってからは英語だけに絞り、高2まで続けました。ほかに習っていたピアノや水泳は続きませんでしたが、KUMONだけなぜそんなに続いたのかというと、ひとことでいえば「楽しかった」からだと思います。

私は「自分だけ字が読めない」ことがコンプレックスとなって人見知りになり、学校ではおとなしかったのですが、KUMONでは先生と打ち解け、のびのびできました。そして教室でできた友だちが同じクラスになったりと、学校生活も楽しくなっていきました。

親身になってくれる先生との出会いも、長く続いた要因です。印象に残っているのは中学のとき、英検会場に先生が付き添ってくれたこと。終わったときに「終わったね!」と優しく迎えてくれた記憶があります。高校に入ってからは吹奏楽部の活動が忙しくなり、あまり通えなくなりましたが、日程や時間を調整してくれるなど、私がストレスなく通えるような工夫をしてくださいました。本当にありがたかったです。

KUMONに通い続けてよかったと思うのは、「生活の中に、ある一定時間勉強する時間をつくる」という習慣がついたことです。その延長線上のような形で「ノートをとるくせ」がついたのも、よかったと思っています。大学時代の実習やボランティア活動など、何かしたら必ず、自主的に「書いてまとめて振り返る」ようになりました。働き出した今でもその習慣は続いています。イベント後に反省点を書き記し、ときおりノートを見返し、次のイベントに活かしています。

後編を読む

関連リンク対馬野生生物保護センター 『ツシマヤマネコ飼育員物語』


堺真由子さん  

後編のインタビューから

-就職活動で内定をもらうも、迷いが生じて
-今好きなことを仕事にできている秘訣とは?保護者へのメッセージ
-対馬に来て、堺さんの気持ちの変化とこれからの抱負とは?

後編を読む

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