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Vol.018 2015.03.06

被災地内科医 森田知宏さん

<前編>

最先端医療10人を救うよりも
別の方法で10万人を救う医療をめざして
被災地での現状に向き合う

医療法人社団茶畑会 相馬病院 内科医

森田 和宏 (もりたともひろ)

1987年大阪生まれ。2012年3月東京大学医学部医学科卒業。同年4月より千葉の総合病院にて初期研修。2014年5月より相馬中央病院の内科医として勤務。同年4月より、東京大学大学院医学系研究科にも在籍、相馬での実践を科学的に分析する研究も始めている。

中学生のときから医師を志し、夢をかなえた森田先生。大学時代の同期の多くが専門医・認定医として特定医療分野をめざすなか、あえてその道は選ばず、医師免許を取得してすぐ、いまだ「被災地」である福島県相馬の病院に自ら希望して赴任。東日本大震災とそれに伴う原発事故の影響もあり高齢化が加速する地域の現状は、「近い将来の日本の姿」だと考える森田先生に、自身がいますべきこと、めざしたい未来についてうかがいました。

目次

福島県相馬の“いま”は、近未来の日本の姿
「被災後の地域と高齢者のおかれた現状」に向き合う

被災地内科医 森田知宏さん

東日本大震災が起こったのは、僕が医学部6年生のときです。たまたま僕はそのとき、医学部の実習でオーストラリアにいて、帰国したのは3月の終わり。ほんとうに大変なとき、僕は何もできていないのです。帰国したころには東京はふだんの生活にもどっていましたが、福島は原発の影響もあり、すごく大変な状況だというので、自分も何かしなくてはと、いてもたってもいられない思いでした。

そこへちょうど、所属していた研究室の先生方が被災地へ診察に行くというので同行を願い出て、震災からようやく2ヵ月後に福島県飯館村へ入りました。全村民が避難する直前で、村の人たちの健康診断を手伝ったのです。その後も、医師の国家試験や卒業試験の合間に、月に1~2回、南相馬に通い、現地の医師の手伝いをしました。そのころには、お世話になっていた南相馬の病院では18人いた医師がわずか4人になっていました。医師もひとりの人間、家族もいますから避難は個人の意思です。しかし、厳しい現実だと思いました。

この福島での体験がきっかけとなり、出身は大阪、大学は東京でしたが、いま、福島県の相馬中央病院で内科医として働いています。ふつうは、内科医といっても消化器・呼吸器・循環器など専門をもつ医師が多いのですが、僕はとくに専門はもたず、いろいろな人を幅広く診るようにしています。医師としては3年目で、まだまだ駆けだし。学ぶことは山のようにあります。けれども、病院に来られる方たちにとっては「主治医」ですから、その責任の大きさを日々感じています。

また、病院内外での医療活動で学ばせていただいている貴重な情報や実践や知恵をきちんと整理し、科学的な視点で分析をして、ほかの地域や後世に伝えていくために、母校の大学院の医学系研究科にも籍を置いています。ここでの研究は「高齢化が進む地域でどんな問題が起きるか」をテーマに、原発事故による社会的影響などを含めて研究しています。医療活動という実践とその科学的な分析や研究で、互いを補完し合い、より良い医療につなげたいと思っています。

2015年4月からは、相馬市内で介護申請をする人たちの介護度を決める審査にも携わることになりました。これは「被災地の高齢者の現状」「高齢化社会と医療」といった課題に直接かかわることであり、大学の研究科での研究とも重なり、とても重要な仕事をさせていただくことになったと感じています。

震災やそれに伴う原発事故の影響を受けた地域では、若い人が外へ出てしまい、高齢化率(65歳以上の高齢者人口が総人口に占める割合)が非常に速く高くなり、高齢者を介護する人がさらに足りなくなる、つまり地域の介護力の低下が深刻になってきています。現在、相馬市の高齢化率は27%。日本の2020年ごろの高齢化率も同じくらいになると予測されていますから、いまの相馬市のさまざまな実践は、将来の日本を支えることにつながり、ここでの活動が必ず役に立つ日が来ると思っています。

落ち着きがなかった子ども時代、医師への憧れを芽生えさせた母の言葉とは?

落ち着きがなかった子ども時代
母の言葉で芽生えた医師への憧れ

被災地内科医 森田知宏さん

もともと「世の中の役に立ちたい」と考えていた僕は、小学生のときには、なんとなくですが医者になりたいと思っていました。でも、医者が何をするのか具体的なことまではわかっていなくて……。母の「人の命を救うお医者さんていい仕事だよ」という言葉の影響が大きかったのかもしれません。父は会社勤めで、とくに医者の家系でもありません。幼稚園のときには「熊になりたい」と言っていたそうなので、ある意味大きな進歩ですね(笑)。

だからといって、母は教育にとくに厳しいということもなく、虫に興味をもてば昆虫を飼わせてくれたり、いろいろな本を買ってくれたりと、機会はたくさん与えてくれましたね。公文の教室に通ったのもそのひとつです。幼稚園のころから通いはじめ、学年より先の教材へ進み計算が得意になったところでいったん休会して、そのあとは中学受験のための塾に通いました。そして受験が終わり中高一貫校に進学してから、再び公文の教室に通いはじめ、英語をメインに公文の学習を続けました。

公文での思い出ですが、中学時代はともかく、小学生のころは教室の先生に迷惑をかけていたのでは、と反省しています。いっしょに通っていた姉は真面目でしたが、僕はいつも落ち着きがなくて……。問題を解いている途中で寝ちゃったり、教室のなかを歩き回ったりして、先生はさぞかし困っただろうと思います。でも、学習がつまらないとか、飽きたとか、そういうことではなくて、公文をやめたいと思ったことはありませんでした。

そんな僕が大人になって、現在、落ち着いたかというと……。なんともいえないですね。大学卒業前に何度も福島に行ったり、千葉での研修医生活が終わったらすぐに福島に行ってしまうなど、ひとつのところに落ち着いていられない。そういう意味では、子ども時代とあまり変わっていないのかもしれません(笑)。

子どもはくり返しの練習で伸びていくと思う理由は?

学習はセンスではなく、くり返しが決め手
基礎のくり返しがほんとうの力になる

被災地内科医 森田知宏さん

公文に通っていてよかったと思うのは、数学・国語・英語の基礎力がしっかりと身についたことです。基礎的な力が備わってはじめて、ものごとの概念を理解できるようになると思うからです。それと、自分のペースで進められ、自分の学年より先のことを学べるというのもよかったですね。がんばったら、がんばっただけ、どんどん先にいけるのは、とてもやりがいがありました。

「くり返し」が大事だということもよくわかりました。たとえば計算問題も、くり返しやれば速く正確に解けるようになります。漢字も英単語も、くり返して書けば、確実に憶えるし、その意味も深くとらえられるようになります。よほどの天才は別として、センスよりもくり返しによって伸びていくのだと思います。

とはいえ、くり返しの練習は、その子がそれを「おもしろい」と思えば続くでしょうが、そう思わないと続かないと思います。そう考えたとき、公文の学習法はよくできていると思います。また、子どもは飽きやすいので、僕の母がしてくれたように、子どもが興味を示したら、いろんな面からそれに触れる機会を増やし、いろいろな刺激を与えてあげるのもいいのでしょうね。

そういえば、小学生のときの漠とした思いから、医者になろうと真剣に思いはじめたのは中学3年くらいからでしたが、それも日常のそうした母の対応や言葉の影響なのかもしれません。中学時代、囲碁に夢中になった僕は、中3のとき成績がダウンしてしまい、挽回しようと勉強しているうちに、はっきりした理由はわからないのですが、「医者になろう」と心に決めたと記憶しています。もともと「世の中に役立つことをしたい」と考えていたこともあり、大学は医学部へ進学することしました。

関連リンク
医療法人社団茶畑会 相馬中央病院


被災地内科医 森田知宏さん  

後編のインタビューから

– 森田先生が被災地で医師として働こうと決めるに至った経緯とは?
– 「専門医」「認定医」の道をあえて選ばなかった2つの理由
– 「社会での“人と人とのつながり”が健康に与える影響はとても大きい」

後編を読む

 

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