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Vol.017 2015.02.06

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂広志先生

<前編>

自己肯定感を心に抱き
「いまを生き切る」ことで
人間の可能性は花開く

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表

田坂 広志 (たさか ひろし)

1951年、愛媛県生まれ。東京大学工学部卒業、同大大学院で博士号を取得した後、民間企業に入社。1987年より米国のシンクタンク、バテル記念研究所の客員研究員として勤務。1990年に日本総合研究所の設立に参画。2000年、多摩大学大学院教授に就任。同年、21世紀の知のパラダイム転換をめざすシンクタンク・ソフィアバンクを設立。2011年、東日本大震災に伴い内閣官房参与を務める。2013年、1700名の経営者やリーダーが集まり、21世紀の「変革の知性」を学ぶ場、「田坂塾」を開塾。

シンクタンクの代表であり、ビジネス・経営・教育などの分野でも多彩なキャリアを持つ田坂広志先生。世界経済フォーラム(ダボス会議)グローバル・アジェンダ・カウンシルメンバー、世界賢人会議ブダペスト・クラブ日本代表でもあり、地球規模の知識人、そして実践者として活躍されています。一方で、そこに至るまでには大きな苦難や挫折も体験。それらを乗り越えられたのは、ご両親の「祈り」と「潜在意識への教育」があったからだといいます。

目次

「お前は、やればできるのにね・・・」。母の言葉が自己肯定感を育む

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂広志先生

私は、大学院で社会起業家論を教え、シンクタンクの代表も務めていますが、いま最も力を注いでいるのは、「人間の可能性が開花する成長の場」を創ること。それが「田坂塾」です。

我々人間が「目の前の現実」をより良きものに変えるためには、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という「7つのレベルの知性」を、垂直統合して身につけなければなりません。どれかに偏った知性の在り方では、現実を変革することはできません。その「7つの知性」をバランス良く身につけた「スーパージェネラリスト」への成長をめざす場が、「田坂塾」ですが、なぜ、こうした場を創ったかといえば、私も60歳を越えて、次の世代を育てるべきと思ったからです。そして、そう思うに至ったのは、やはり、私自身の人生が、父と母の教育によって導かれ、その可能性を開花させてもらったからです。

実は、私は、小学校時代は、勉強もできず、目立たず、自信のない少年でした。そのため、実社会に出てから小学校の同窓会に行くと、「田坂君・・・だよね?」と旧友たちから不思議そうに声をかけられます(笑)。しかし、勉強はできなかったのですが、両親から「勉強しなさい」と言われた記憶はありませんでした。

ただ、いま振り返ると、母は、私がときおり国語などで良い点数を取ったときなど、必ず、「お前は、やればできるのにね・・・」と言ってくれました。子どもというのは、素直なもので、繰り返しそう言われていると、自分の中に、少しずつ「自己肯定感」が育ってきます。その意味で、母は、子どもの心の成長にとって、とても大切な言葉を語り続けたのですね。

その一方で、母は、私に、英雄伝の古典『プルターク英雄伝』を読ませたり、アラブを舞台にした歴史スペクタクル映画『アラビアのロレンス』を見せたりしました。「勉強しなさい」という説教はしませんでしたが、ときおり、「人類に貢献する人間となれ」「歴史的スケールで生きよ」と話していました。一方で、「宇宙的スケール」の視野を教えてくれたのは父です。小さな会社を経営していて多忙でしたが、理学部出身の父は、暇があれば科学雑誌を熱心に読んでいました。言葉は多くない父でしたが、その姿から、宇宙や自然、科学や技術についての興味を学びました。

そんな両親が育んでくれた「自己肯定感」や「学ぶ姿勢」をさらに育ててくれたのが、中学校のときの担任の先生でした。普通、生徒の成績は「良い順」に発表しますが、その先生は「伸びた順」に発表したのです。成績が低くても、その伸びが大きければ、他の生徒の前で「よくやったな!」と腹の底から誉めてくれるのです。成績が下のほうの私でも、頑張って成績が上がれば誉めてくれる。それが嬉しくて勉強をするようになりました。

すると、成績は、倍々ゲームで伸びました。いま振り返ると、その先生は「命懸け」で誉めてくれたのですね。教師が子どもを誉めるとき、実は、その言葉には、「目の前の子どもの人生が懸かっている」のです。その意味で、その先生は生徒のことを、文字通り「命懸け」で誉めてくれたのです。

子どもにとって大切なのは、「こうしなさい」といった「指示による教育」ではなく、心の奥深くに染み込むような「潜在意識への教育」なのです。そして、その一つの方法が、実は、両親の「横顔」と「後姿」なのですね。そして、命懸けの信念が宿った先生の「言葉」なのです。その「潜在意識への教育」が、ときに、ひとりの人間の可能性を大きく開花させる。もし私が、世の中にささやかな光を届けられる人間になっているとすれば、それは、私の力ではなく、私を育ててくれた両親や先生の力なのです。

田坂先生が「原子力を学ぼう」と考えた理由とは?

エネルギー危機と環境問題が交差する「原子力」を学ぶ

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂広志先生

私は、もともとは文系の教科が好きでしたので、高校2年までは法学部を志望していました。しかし、高校3年のとき、なぜか数学が面白くなってしまったのです。そこで、「自分は、理系が向いているのでは」と思ってしまい、迷いながらも工学部に進むことにしたのです(笑)。

しかし、私が大学を受験する1970年前後は、学生運動の全盛期でした。当時は、大学に行くことについて、真剣に考え悩む高校生も少なくなかったのです。私自身も、受験競争で誰かを蹴落としてまで自分が出世する道を選ぶべきか、そうまでして大学へ行くべきではないのではと、本気で悩みました。けれども、「人類に貢献する人間となれ」という母の言葉が心に浮かび、「自身の出世のためではなく、やはり、人類に貢献するために、大学に行こう」と考え、進学することにしたのです。

大学で原子力を学ぼうと思ったのは、一冊の本との出会いからです。当時の世界的なシンクタンク、ローマクラブが出版した『成長の限界』という本です。これから人類は、人口爆発、食糧不足、資源枯渇、エネルギー危機、環境問題という「五つの問題」がゆえに、100年も経たぬうちに、その経済成長が限界に達するという内容。

私は、この人類的問題を解決することを志し、五つの問題のうち「エネルギー危機」と「環境問題」という二つの問題の交差点にある「原子力」を学ぼうと考えました。このときも、両親の「歴史的スケール」や「地球的スケール」で生きよという教えが影響していたのでしょう。特に、環境問題を学ぶために、工学部卒業後の二年間、医学部で放射線医学を学んだのも、そうした理由からです。

従って、大学院は、修士課程から博士課程へと進み、博士号を得ましたが、当然、その後は、大学に助手として残り、原子力の研究者として研究を続けるつもりでした。しかし、運命的なことに、当初、予定されていた助手のポストが、突然、空かないことになってしまったのです。教授からそれを伝えられたときには、ショックでした。そこで、仕方なく、中央研究所のある大企業であれば原子力の研究を続けられるだろうと、民間企業に就職しました。しかし、これも運命的に、配属先は法人営業部。世の中に数ある法人営業の中でも、原子力産業の法人営業は、最も競争が激しい修羅場の部署でした。

人生の大きな分かれ道とは?

最初は逃げ出したかった営業職で、自分のなかの可能性が引き出される

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂広志先生

そうした経緯から、不本意ながら携わった営業の仕事でしたが、研究者の道を歩もうとした人間にとっては、営業の仕事は毎日がお金の話ばかり。「こんな世界は、自分に向いていない。純粋な研究ができる、大学に戻りたい」と思いながら仕事をしていました。

そんな矢先、これも天が与えた何かの「試験」だったのでしょう、ある私立大学から化学の助手のポストがあると誘われたのです。営業の仕事から逃げたいという心境の時期でしたので、これは有り難い配剤だと思い、二つ返事でそのポストを受けることにしました。そして、いま任されているプロジェクトが一段落したら辞表を提出しようと考えていたときです。不思議な形で、私の人生の大きな分かれ道がやってきたのです。

一日の営業が終わっての帰り道、銀座で偶然、高校時代の友人に再会したのです。一緒に夕食を取り、その後、一杯やりながら語ろうと、その友人がよく使うクラブに行きました。その店で飲みながら、いつ友人に大学に戻ることを打ち明けようかと考えていると、突然、向こうの席から、店の女性が逃げるように駈けてきて、私の隣に座ったのです。その不愉快そうな表情を見て、「どうしたんですか?」と聞いたら、その女性は、向こうの席にいる年配の男性客を睨みながら、「嫌な客!」と吐き捨てるように言ったのです。そして、その次の女性の一言で、私は、頭を殴られたような気がしたのです。

「嫌な客!」「あれで、大学の先生なんだから!」。
その言葉を聞いた瞬間、自分が大きな勘違いをしていることに気づかされました。

民間企業は、「金儲け」という欲得の世界だ。けれども、大学に戻れば、「真理の探究」という美しい世界が待っている。その世界に戻ろう。自分で、勝手にそう思い込んでいたのです。しかし、どの世界にも、欲得の人はいるし、どの世界にも、素晴らしい人がいる。それにもかかわらず、大学という世界に幻想を抱き、自分は目の前の現実から逃げ出そうとしていた。その自分の姿に気がついたのです。

そして、そのとき、母の言葉が心に浮かんできました。「卒業しない試験は追いかけてくる」という言葉です。その言葉の通り、私は、この民間企業で、「人間関係」という試験に苦しめられていたのです。しかし、大学に戻ることによって、その試験から逃げようとしていた。逃げられると思っていた。しかし、その試験は、必ず追いかけてくる。

そうであるならば、腹を定めようと思ったのです。この与えられた民間企業という環境で、与えられた試験に合格しよう。目の前の現実から逃げず、法人営業という厳しい世界で「卒業証書」を手にしよう。そう覚悟を定めたのです。そして、いつか転職をするとしても、それは、その「卒業証書」を手にしてからにしよう、そう考えたのです。

しかし、そう腹を定め、覚悟を定め、翌日、会社に行ってみると、不思議なことに、「風景」が変わっているのです。毎日の営業の仕事も学び、日々の仕事のすべてが学び、と考えて出社すると、自分の周りにいる人たちが輝いて見えるのです。昨日まで、まるで肌が合わないと思っていた人にも、こんな素晴らしいところがあると感じられるようになったのです。ある意味で、この日からが、わたしの実社会における「本当の学び」のスタートでした。

そして、もう一つ運命的であったのが、私が配属された法人営業部の直属の上司が、「営業の達人」だったことです。それまで、営業の仕事を嫌がっていた私が、仕事に前向きになった瞬間に、気がつけば、目の前に素晴らしい師匠がいたのです。そして、この上司である課長と一緒に仕事をするなかで、営業の仕事というものが、「人間学」を学び、「人間力」を身につけ、人間を磨いていくための最高の修行になることに気がついていくのです。

特に、営業というものは、お客さまの心を相手にする仕事であり、お客さまの心を細やかに感じ取り、その心に細やかに働きかけていく仕事であることを、深く学びました。そして、その修行を真剣に続けているなかで、気がつけば、私は営業マネジャーになっていました。いま振り返れば、この法人営業の時代に、私の中に眠っていた可能性が引き出され、開花していったのだと思います。

そして、この法人営業の時代に学んだことは、後に、新たなシンクタンク、日本総合研究所の設立に参画したときに、大いに役に立ちました。そして、この日本総研というシンクタンクを立ち上げ、その戦略担当役員を務めた経験が、その後、様々な企業の経営参謀としての仕事の役に立ち、さらに、その経験が、2011年の東日本大震災に際して、総理大臣の特別顧問、内閣官房参与に就任し、官邸において原発事故対策に取り組んだとき、大いに役立ちました。

こう振り返ってみると、「人生において、一つとして無駄な経験はない」ということを、しみじみと感じます。もし、神様というものがいて、私に、「タイムマシンで大学院時代に戻り、研究者として大学に残れるようにしてやろう」と言ってくれたとしても、「いや、ここまでの人生を、すべてそのまま歩ませて頂きたい。それで結構です」と、躊躇なく答えるでしょう。「あの苦労や困難、挫折や敗北なども含めて、そのままの人生で良いのか?」と聞かれたら、やはり「それで結構です」と答えるでしょう。なぜなら、あの苦労や困難、挫折や敗北があったからこそ、それを糧として、私はかけがえの無い大切なことを学べたからです。

多摩大学大学院名誉教授 シンクタンク・ソフィアバンク代表 田坂広志先生  

後編のインタビューから

– 人生の大きな転機につながった“人と人との縁”
– 32歳でガンを患い、医師から余命宣告を受けて・・・
– 田坂先生が考える「子どもたちに見つめてほしいこと」とは?

後編を読む

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