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Vol.052 2018.02.16

サイエンスコミュニケーター
工藤光子さん

<後編>

目に見える形にすることで
科学の面白さと正しさ

より多くの人に伝えられる

サイエンスコミュニケーター 立教大学特任准教授

工藤 光子 (くどう みつこ)

1970年、神奈川県生まれ。名古屋大学大学院理学研究科生命科学専攻修了。1996年よりJT生命誌研究館に勤務。2004年に出産を機に退職し、2008年までアメリカとドイツで暮らす。帰国後、2010年より立教大学理学部にサイエンスコミュニケーションプロジェクトのプログラムコーディネーターとして採用され、2013年から特任准教授に。教鞭をとる傍ら、2011~2016年には新学術領域「細胞壁情報処理機能」広報担当として、ホームページ制作や移動展示作成を行う。2016年より国際生物学オリンピック日本委員会の運営委員も務める。

工藤先生は、科学分野の最新の研究を一般の人に向けてわかりやすく解説する「サイエンスコミュニケーター」という仕事に携わっています。その仕事の役に立っているのが、なんと子どもの頃からの趣味である手芸とのこと! 科学と手芸という一見関係なさそうな分野を組み合わせて、独自の方法で科学の魅力を一般の人に伝えている工藤先生。プライベートでは2児の母でもあります。出産・子育てを経てどのようにキャリアを積んできたのかなども含め、これまでの道のりをうかがいました。

目次

進路変更が幸いし、天職に出会った

工藤光子さん

大学は理学部に進学しましたが、実は大学に入る前から、「研究者になるよりも科学の面白さを伝える人になりたい」と思っていました。それは、浪人生のときに予備校の生物の先生から研究のお話を聞いて、「私は新しいことを発見することには興味がないな。それよりも、研究で明らかになったことを、友だちや家族にそれがどれだけ面白いことなのかを伝えたい」と気づいたんです。研究でわかったことをどんな順番で話せばいいか、どんな例を出して説明すれば興味を持ってもらえるか。そういうのを工夫するほうが楽しいと思ったんですよね。

といっても、当時はそんなことができる仕事は、新聞記者くらいしかなかった。科学専門の記者になるには、とりあえず博士号が必要だと思い、大学院に進学しました。ですが、修士論文の発表会の時に博士課程への進学をやめ、実家のある神奈川県に戻って就職しようと決めました。それは、当時いろいろな要因が重なって精神的に落ち込んでいる状態だったことも原因のひとつです。

幸いなことに実家近くの大学で、技術員の仕事が内定したのですが、そのときに私の尊敬する研究室の先生から、「君がかつて希望していた進路とは違うんじゃないか? お友だちを作りに行くのが君の就職なのか?」と言われまして……。しかも折よくその先生から、「JT生命誌研究館に知り合いがいるから、話を聞きにいったらどうか?」と言われたので、大阪にまで出かけて面接に行ったんです。すると、「ちょうど花の展示ができる人を探している」と言われて、1年の契約で雇っていただけることになりました。

そんな経緯からJT生命誌研究館で働くうちに、「これって私の天職じゃない?」と思うようになりました。それからは、夢中で働きましたね。もともと契約が1年以上になることはないと断言されて採用されたのですが、なんとか残れるように実績を残し、アピールしました。結局、8年も雇ってもらって、サイエンスコミュニケーション部門を任されるまでになりました。この時役に立ったのが小さい頃から好きだった「ものづくり」なんです。模型を作るのはとても高価ですから、得意な手芸を生かして紙粘土などで自作したりしたのですが、これを研究館のトップが喜んでくれました。これは大きかったと思います。

工藤先生が子育てで身につけた力とは?

妊娠を機に働き方を見直し、5年間専業主婦に

工藤光子さん

JT生命誌研究館では毎日午前様で帰宅するくらい、思いっきり仕事に没頭していました。若くして管理職になったので、さまざまな体験をさせてもらいました。そんなときに妊娠が判明。しかも、夫は研究のためアメリカに。夫についていくか悩みましたが、そろそろ働き方を変えないとだめだとも思っていました。というのも、当時は仕事が忙しく、インプットが足りないと感じていたからです。

もちろん、仕事としてアウトプットする前提のインプットはできたのですが、仕事とは直接関係のない、たとえば科学史や科学哲学について学びたくても、仕事が忙しすぎてそんな暇が全然なかった。それで一度現場を離れてみようと決心し、1人目の妊娠8ヵ月のときにアメリカに渡ったんです。

渡米後もできる範囲で仕事を続けていましたが、その後今度は夫がドイツへ行きたいとなりまして……。このときばかりは職場と働き方の条件面が折り合わず、結局退職することになりました。ドイツで2人目を出産し、下の子が幼稚園に入るまでは専業主婦として過ごしたというわけです。

子育てを通して、私自身さまざまな面で成長したと感じています。仕事をするうえで、自分に新しいチャンネルが増えたからです。仕事というのは、来たら処理するものですよね。でも、子育てはそうはいかない。子どもが成人するまでは20年と大変長いし、特に小さいうちは24時間365日関わらなければいけない。それに、仕事は成果を明確にイメージできることも多いですが、子育てはそれが難しい。子どもは別人格ですから、完璧にはコントロールできません。

「いったん受け入れる」「待つ」という部分の対応力は、子育てを通して徹底的に鍛えられました。そしてそれは仕事にも役立ちました。「あ、この案件はいったん受け入れておくけれど、あまり触らないほうがいいな」という判断ができるようになったり。私の仕事である“伝える”という観点でも、「お母さん」というくくりで、ずいぶん多くの方に伝えられることがあるなとも思います。

工藤先生から若者たちへのメッセージ

若い女性には40歳、50歳の自分を想像してキャリアプランを考えてほしい

工藤光子さん

今、大学で学生たちと接していて思うのは、インプットしたらあまり考えることをせず、すぐアウトプットする傾向にあるな、ということです。調べたことをあまり検証しないんですね。昔よりも時間の流れが速いからそうせざるを得ず、ある意味かわいそうだとは思いますが。

今の教育は、アウトプットに力を入れすぎている印象があります。教育現場では「アクティブラーニング」が話題になっていますが、脳の構造から考えても、知識をどんどん吸収できるのは20歳くらいまでなのに、その時期のインプットを減らしてしまっていつインプットするんだろう?と個人的には危惧しています。

少し話は変わりますが、JT生命誌研究館に勤務していた若いころ、当時40代半ばの研究員に言われた言葉が心に残っています。そのときに、その研究員からこう言われたんです。「中年というのは、若手がいくらできると思っていてもやすやすと認めてはいけない。時にはあえて邪魔をするのが中年の役割なんだ。それによって若手に乗り越える力を身につけさせることができるからだ」とね。

当時の私は、その言葉が理解できませんでしたが、自分が中年になってみると、これは本当によくわかります。認めるのなんて簡単なわけです。そこであえて多少負荷をかければ、若手は自分で考えるでしょう。最近では、若手に認められようという中年が多いような気がしますが、それって次の世代には必ずしもいいことではないと思います。

それと、私自身が子育てをしながら仕事を続けている立場から、特に若い女性に伝えたいことは、ぜひ「40歳、50歳の自分を想像して就職活動をしてほしい」ということです。女性は出産というターニングポイントで、キャリアプランを変更せざるを得ないことがあります。私がよく女子学生に言っているのは、「子どもを産む前にひとつポジションをあげておこう」ということです。管理職に上がった人は、見える世界が違います。それを知っているのと知っていないのとでは大きく違ってきます。それを意識するかどうかで女性の人生はその後が変わってくると思いますよ。

私自身は、これからも「与えられた仕事に全力投球する」ことをポリシーとして持ち続けていきたいと思っています。そして、サイエンスコミュニケーターをしっかりした仕事として確立できるよう、後進を育てられるようになっていきたいと考えています。

前編を読む

関連リンク立教大学理学部共通教育推進室工藤光子先生ウェブサイト


工藤光子さん  

前編のインタビューから

-「サイエンスコミュニケーター」という仕事
-工藤先生が大事にしている「論文を演奏する」とはどういうことか?
-工藤先生が公文式で得たものとは?

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