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Vol.051 2018.01.19

ONO BRAND DESIGN代表・デザイナー
小野圭介さん

<前編>

自分が直感した
好きなことへの熱量
信じて大切に育もう

ONO BRAND DESIGN代表・デザイナー

小野 圭介 (おの けいすけ)

1982年、北海道札幌市生まれ。埼玉県北本市、長野県長野市育ち。早稲田大学理工学部建築学科に在学中に、米国系ブランドコンサルティング会社ランドーアソシエイツ東京オフィスでアルバイトを始める。同大卒業後、ランドーアソシエイツでしばらくアルバイトを続けた後、デザイナーとして採用され、正社員に。シニアデザイナーを経て、2012年同社を退社、独立してONO BRAND DESIGNを設立。共著に『ロゴデザインの現場 事例で学ぶデザイン技法としてのブランディング』(MdNコーポレーション)。受賞歴はPentawards(国際パッケージデザインコンペティション )ブロンズ賞(2017)、日本タイポグラフィ年鑑 ベストワーク賞 (2015)など。4歳から中学までの間、埼玉と長野の公文式教室に通う。算数・数学、英語、国語を学習。

会社やブランドの「しるし」ともいえるロゴマーク。言葉で説明するよりも、見ただけで、その会社の想いが伝わるものとして、多くの企業で使われています。2018年に創立60周年を迎える公文教育研究会でも、記念のロゴマークを作成し、KUMONに関わる方々への感謝の気持ちを発信しています。そのデザインを担当してくださったのが小野圭介さん。建築学科出身という、デザイナーとしては異色の経歴の持ち主の小野さんが、デザインの道に進まれたのには、どんな背景があったのでしょうか。仕事の魅力やKUMONの60周年ロゴが生まれるまでの道のりについてもうかがいました。

目次

小さなロゴの中に、
いかに「伝えたい想い」を込めるか

小野圭介さん

私は、ブランディングデザインといわれる、企業や商品が持つイメージや想いを、デザインを通じて多くの人に伝える仕事をしています。分かりやすく言うと、企業のロゴをつくったり、商品のパッケージをデザインする仕事です。

ロゴは、名刺や商品、パンフレット、あるいは街中にある看板など、色々な場所に使われています。その小さなロゴに、経営理念など企業の「伝えたい想い」をしっかり込め、その想いを消費者に伝えたり、その企業で働く人の士気向上にもつながるように、強くもあり汎用性もあるようにデザインします。簡単ではありませんが、それがこの仕事の魅力でもあります。その企業の「顔」として長く使っていただけると、やりがいを感じます。

パッケージデザインについては、私はこれまでコーヒーや紅茶、お菓子など、スーパーやコンビニで並ぶ商品を中心にデザインしてきましたが、パッケージは消費者の「買う・買わない」を決定づける重要な要素です。一瞬のうちに判断されるので、より感覚に訴えていく難しさがあります。つい、手にとってみたくなる、そんなデザインをめざしています。

こうしたブランディングデザインをするにあたり、まず重要なのは、企業の想いや狙いをしっかり聞いて理解することです。ロゴやパッケージで何を伝えたいのか、その想いの中にデザインのヒントがあるからです。

そこからその想いをどう形にしていくかというと、その企業や商品に関する資料を集めるなどして情報をインプットし、デザインのスケッチをいくつも描きながら、イメージを膨らませていきます。クライアントからの情報だけでなく、街を散策したりスーパーの棚を見たりして、「こんなモノがはやっているんだな」など、生活者の目線で見て、肌で感じ取ることも大事にしています。

小野さんが公文式学習で得て今の仕事にも活きている力とは?

公文式学習で得た「読解力」「思考力」が
今の仕事にも活きている

小野圭介さん

私が幼少期を過ごした埼玉県の郊外は、雑木林や田んぼが広がるのどかなところです。そこで友人たちと暗くなるまで駆け回って遊んでいました。ゲームをしたりマンガもたくさん読んだりと、ごくふつうの子どもだったと思います。

その頃は、宇宙飛行士や医者など、将来の夢はさまざまでした。でも、ものをつくったり、絵や文章でイメージを伝えることはずっと好きでしたね。そうしたことが好きだったのは、父の影響が大きいと思います。父は会社員でしたが、一時期、製図の仕事をしていたこともあり、家には製図台がありました。絵筆やコンパスなども揃っていて、イラストをよく描いてくれたり、描き方も教えてくれました。現在も植物の細密画などを楽しんでいます。

母は料理好きで、季節の果物のジャムや味噌を手作りし、洋服も自作するような人。両親とも、日々の生活を大切にし、自分の好きなことを楽しんでやっていた印象があります。それで私にも、あまり「勉強しろ」とは言わずに、好きなことを好きなようにさせてくれたのかもしれません。

公文式の教室に通うようになったのは、3つ上の兄が通っていた影響です。4歳くらいから中学生くらいまで、長野に引っ越したときも教室を変えてずっと通っていました。国語、算数・数学、英語を学びましたが、中でもとくに国語が好きでした。

公文式の国語教材には、物語や小説の一説が題材として使われています。私は、登場人物の気持ちを読み解く「読解文」が大好きでした。母は、その問題の続きを本で読んでくれたり、くもんの推薦図書のリストをチェックしながら、たくさんの本を読んでくれたりして、そのおかげで私は本好きになりました。教材も進み、進度上位者として表彰されたこともあります。

このとき好きで取り組んでいた「読解」、つまり「人の思いを読み解く」のは、デザイナーになってからも、ものすごく活きていると感じます。デザインの仕事は、単に形をつくればよいのではなく、依頼主の話を理解する力や社会の情勢を読み解く力が必要だからです。また、デザインしたものを論理的に説明できる「思考力」や言語表現も必要です。これらはどんな仕事でも役立つ基礎体力。その基礎が公文式学習で鍛えられたと思います。

小野さんが今の道に進む転機となった出来事とは?

進路に悩んでいた大学時代、
ある雑誌と「運命の出会い」

小野圭介さん

小学生のころは、それなりに成績がよかったのですが、中学2年生くらいでガクンと低下。自分で「これはまずい」と気づいて、いったん中1の内容に戻って必死に勉強し直し、なんとか盛り返しました。

埼玉県内の私立高校へ入ると、ラグビー部と写真部をかけもちしつつ、アート好きな友人たちとTシャツをデザインしたり、写真を撮ったりと、好きなことをしていました。このころに興味あることを掘り下げていたことが、将来の道を方向づけていたのかなと、今振り返って思います。

その学校が早稲田大学の附属校だったので、その流れで同大学理工学部建築学科に内部進学します。でも、建築への興味がとても強かったわけではなく、小さいころから興味を持っていたグラフィックデザインやイラスト、アートなどの分野に進みたかったというのが本心でした。早稲田には該当する学部がなかったこともあり、建築学科なら近いかなと思っての選択でした。

入学すると、当然ですが、建築への熱量が高い人たちばかり。課題作品の質も高く、自分との差に愕然としました。自分は彼らほど建築に熱中できないかもしれない、と自覚するようにもなりました。

もやもやした気持ちで時間だけが過ぎる中、転機が訪れたのは、就職活動が始まる大学3年の終わりです。建築学科の学生は多くの人が大学院まで進むのですが、私は就職か進学かに揺れ動いていました。そんな時期に、書店でたまたま手にとった雑誌が私の運命を決定づけます。そこには、CI(コーポレートアイデンティティ)が特集されていて、企業のロゴマークがずらりと並んでいました。それを見て「自分がやりたいことはこれだ!」と直感したのです。

紹介されていたデザイン会社の1社に、米国系のランドーアソシエイツがありました。世界的な企業やブランドのロゴを手がけていることを知り、「自分もこの会社でロゴをつくりたい!」と、帰宅後すぐホームページを検索。採用募集はしていませんでしたが、メールで問い合わせてみると、幸運なことにアルバイトとして働けることに。それで大学4年時は、週3日バイトをして、残りの日は大学で卒業設計に取り組むという生活を送りました。

後編を読む

関連リンクONO BRAND DESIGNウェブサイトKUMON創立60周年ページ


小野圭介さん  

後編のインタビューから

-小野さんがデザインの仕事で心がけていること
-KUMONの60周年ロゴに込めた想いとは?
-小野さんの今後の夢とは?

後編を読む

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