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Vol.049 2017.11.10

パティシエ 本間友梨さん

<前編>

地道に積み重ねることで
知識や技術が身につき
やがて生活のとなる

パティシエ

本間 友梨 (ほんま ゆうり)

大阪府生まれ。地元の高校を卒業後、辻製菓専門学校へ進学。大阪の洋菓子店「なかたに亭」を経て東京へ。日本を代表する料理人、三國清三氏がオーナーシェフを務める「オテル・ドゥ・ミクニ」の菓子部門で修行を積む。同店でシェフ・ドゥ・パティシエ(菓子部門長)を務めていた師匠、寺井則彦氏の独立開業に伴い、パティスリー「エーグルドゥース」へ。29歳のとき単身フランスに渡ったのち、ルクセンブルクで3年半修行。2012年に帰国後、日本初の本格アントルメグラッセの店「GLACIEL(グラッシェル)」の立ち上げメンバーとなり、現在は表参道店でシェフを務める。公文式教室には5歳から10年ほど通う。

日本ではまだ馴染みの薄い「アントルメグラッセ」と呼ばれるアイスクリームでつくったデコレーションケーキのシェフ(製造責任者)として、日本のスイーツ文化に新たな風を吹き込んでいる本間友梨さん。濃厚なアイスクリーム、フレッシュフルーツのシャーベット、香ばしいアーモンドスポンジ生地の三重奏が口の中で広がる“究極のスイーツ”は、味もさることながら、本間さんが考えるハリネズミなどをかたどったキュートなデザインも人気です。「ケーキ屋さんになる」という夢をかなえるために、フランスやルクセンブルクで修業し、言葉や人種の壁を乗り越えて認められ、夢を実現させた本間さん。その道のりやパティシエの魅力、商品開発の秘訣などについてうかがいました。

目次

小さい頃から食べることが大好きで
将来の夢は「ケーキ屋さん」だった

本間友梨さん
アントルメグラッセ(アイスケーキ)
「バルーンドフリュイ」

私は今、表参道にある「GLACIEL(グラッシェル)」というアントルメグラッセの店で、シェフを務めています。「アントルメグラッセ」とは、フランス語でアイスクリーム(グラス)を使ったデコレーションケーキ(アントルメ)のことをいいます。

「シェフ」と言うと、料理人をイメージすると思いますが、正確には「製造責任者」を指します。ただおいしいものをつくって終わりではなく、企画・開発から原料調達、配送まで、幅広く関わっています。とくにアイスケーキは配合によっては溶けやすくなるため、配送や保管方法の改善検討も必要だったり、さまざまな業務をしています。

フルーツなど材料についても、直接産地に行って「この人から買いたい」と思うものを買わせていただいています。日本には各地にすばらしい農家さんがいらっしゃって、特徴あるフルーツをつくっていますが、当の農家さんがその価値に気づいていないこともあります。新鮮な材料でつくり、その価値を製品を通じて発信することで、少しでも日本の農家さんの力になれたら、という気持ちもあります。

わたしは幼稚園の頃から食べるのが大好きで、「ケーキ屋さんになりたい」と思っていました。朝ごはんを食べたら昼ごはんのことを考え、小学校の作文にも遠足がテーマなら「お弁当がどうだった」とか、必ず食べ物のことを書いていたくらい。誕生日には必ず母の手作りケーキが登場するような、料理もお菓子づくりも好きな母に育てられたことも影響していると思います。小さい頃は母と一緒にお菓子づくりをし、小学校に入ると、自分でお菓子の本や材料を買ってきて、勝手につくっていました。

本間さんが公文で学んだこととは?

公文の先生から学んだ
「くり返し確認」の大切さが仕事にも活きている

本間友梨さん

公文式は5歳から15歳くらいまで、10年ほど続けました。国語や英語もやりましたが、ずっと続けていたのが算数・数学です。そのおかげもあって、数学は学校ではいつも100点をとることができました。通っていた公文の教室の先生は、100点をとるまで絶対に家に帰してくれなかったんです。だから3時間以上教室にいるときもありました。教室には身体に障害がある子も通っていましたが、先生はその子にも他の子たちとまったく同じ対応をしていました。とても公正で信念のある先生でしたね。

私は中学生の頃は、髪を染めたりしてやんちゃだったんです(笑)。でも公文の先生は私の外見が変わっても別に何も言わず、いつも通りに接してくれました。おかげで勉強はできる方で、友人に放課後に数学を教えたりしていました。

公文の学習は、できるとどんどん進んで楽しくなってくるのですが、その先生は、調子に乗ったところでふいにまた少し前の内容に戻すんです。するとそれができなかったりする。それが悔しくてやり直す。そのくり返しでした。

それで何をするにも必ず確認するクセがつきました。今仕事をしていても、発注書や請求書、配合の数字なども二重三重にチェックします。ひとつでも間違えていたら悔しくて、その夜は眠れないほど。収支の資料など、数字がずらっと一覧で並んでいるのを見ても、苦手意識はそれほどありません。一覧表は、表計算ソフトで間違いなく計算されているはずなのに、まず暗算でざっと確認し、おかしいなと思うものは計算機片手に見直すこともあります。

計算そのものが違っていることはないのですが、おおもとの式が違っていることもあるんですね。これは間違いなく、公文式で10年間学び、くり返しチェックすることの大切さを教えてくれた先生のおかげです。とても感謝しています。

高校に入ってレストランでアルバイトを始めたら、責任ある仕事を任されるようになって、働く面白さに目覚めました。高校卒業後の進路を決めるにあたり、わたしは迷わずケーキ職人になる道を探りました。高校の先生には調理師を勧められましたが、最終的には自分が行きたかった製菓専門学校を選びました。そこを20歳で卒業し、大阪の洋菓子店に勤めました。人間関係もよく、仕事も任せてくれてとてもよい環境だったのですが、当時はそのよさに気づかず、憧れの東京で勉強したくて、反対する父を説得して22歳で上京しました。

フランスでの修業の日々とは?

言葉もわからずフランスへ
「来なければよかった」と後悔の日々

本間友梨さん

上京して食べ歩いていたとき、あるケーキがものすごくおいしくて、この人のもとで働きたいと思いました。それをつくっていたのが、当時「オテル・ドゥ・ミクニ」の菓子部門のシェフを務めていた寺井則彦さん。わたしの師匠です。人を募集していないか店に電話をしたら、運良く募集中だったこともあり、そこで働き始めることになります。

その後、師匠の独立開業に伴い、わたしも店を移ります。一方で、お菓子の本場フランスで学びたいという思いが募り、しばらくして師匠に頭を下げてお願いし、29歳で渡仏しました。当時は日本に帰ってくるつもりはなく、家財道具もすべて売り払って行きました。

フランスでの滞在先は、ドイツにほど近いロレーヌ地方のジャルニーという、スーパーが夕方6時には閉まってしまう小さな田舎町。フランス語もまったくわかりませんでしたが、語学学校などには行かず、いきなり店で働くことに。その店は地域の人気店で、すごく忙しかったですね。店の近くのアパートに住み、朝5時から夜10時まで、ときには夜中の2時から働くこともありましたが、お菓子づくりを学べることが楽しくて苦にはなりませんでした。

でも、じつは最初の1か月は「来るんじゃなかった」と後悔ばかり……。言葉ができないから若い子にもバカにされて、悔しい思いをたくさんしました。ただ、日本で働いていたときも、仕事道具や配合などはすべてフランス語だったので、そこはなんとかなりました。また、調理の作業なら「このタイミングで生クリームを入れる」とか、雰囲気でわかることもあります。

一緒に組んだ同僚が単語を一つひとつ指して教えてくれたり、知らない言葉が出てきたらメモして後から調べたりして、徐々に言葉を覚えていきました。最初は同僚も「日本人の女が何だ?」といった感じでしたが、フランス語も少しずつ覚えて次第に打ち解けるようになりました。

そうして仕事も認められ、お菓子の開発も任されるようになりました。当時は家に帰ってもやることがなかったのでずっとお菓子づくりに向き合って、とても充実した修業生活になりました。

後編を読む

関連リンクグラッシェル|アントルメグラッセ・生グラス専門店


本間友梨さん  

後編のインタビューから

-ルクセンブルクの修業時代
-パティシエの魅力とは?
-本間さんのこれからの夢とは?

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