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Vol.039 2016.12.02

車椅子バスケットボール選手
藤澤 潔さん

<前編>

「どんな自分でいたいか」
イメージして文字に書き起こす
夢の実現に向けた努力ができる

車椅子バスケットボール選手

藤澤 潔 (ふじさわ きよし)

長野県生まれ。中学生で車椅子バスケットボールに出会い、高校1年から地元のクラブチームに所属。現在は株式会社ソーゴーに勤務しながら埼玉ライオンズに所属。2014年「北九州チャンピオンズカップ国際車椅子バスケットボール大会」優勝、2016年リオデジャネイロパラリンピックに日本代表として出場。公文では年長から中学生まで、算数と国語を、途中から英語も学習。

会社員として働くかたわら、車椅子バスケットボールのプレーヤーとして活躍し、今年リオデジャネイロパラリンピックに出場した藤澤潔さん。中学生で車椅子バスケに出会い、高校の時に観た世界選手権である選手に憧れてから、一歩一歩夢に近づき、ついにパラリンピックという大舞台を経験しました。しかし、その道のりに至る間には、思ったようには進めない時期もあったそうです。「悔しさでいっぱいの時期」を、藤澤さんはどう乗り越えてきたのか、そして東京の舞台へ向けた抱負についても伺いました。

目次

苦しく、悔しい体験だったリオ・パラリンピック

藤澤 潔さん

今年の夏に出場したリオデジャネイロパラリンピックは、ひとことで言うと、「苦しい、悔しい」ものでした。今回、僕らは海外の強豪たちと対戦するにあたって、“負けながら勝ち上がる”ことを目標にしようとしていました。

つまり、相手が強くてもなんとか善戦して、6位以上に食い込むんだ、そのためにいろいろと対策を立てていました。例えば初戦を落としたらメンタルをこういうふうに持っていこう、とメンタルトレーナーと話をしたりもしていました。しかし、現地では初戦からいきなり3連敗。試合後は落ち込んでいる暇などなく、しっかりご飯を食べて休み、ミーティングで改善点を整理してまたすぐ翌日が試合、というようなスケジュールで、苦しかったですね。結局、結果としては悔しさを抱えた中での帰国となりました。

車椅子バスケットボールといっても、一般的なバスケットボールとどう違うのか、あまりイメージの湧かない方もいらっしゃるかもしれません。簡単に説明しますと、使用するコートやルールは一般的なバスケとほぼ同じで、大きく異なるのは“ダブル・ドリブル”(ドリブルが一度終わってから、再びドリブルを始めること)がないということ。あとは、障害の程度によってクラス分けがあり、それに応じて選手一人ひとりに持ち点が決められる点です。

ポイントは1.0から4.5まであって、例えば4.5ポイントだと股関節や下肢障害など比較的軽度の人で、ポイントが少なくなるにつれて障害が重くなります。僕は脊髄損傷ですから2.0ポイント。下半身に力が入らないとバランスも崩しやすいので、ポイントが少ないのです。コートに立つ5人の選手の合計ポイントは14.0ポイント以内と定められています。障害が軽い人だけでなく、重い人の活躍も重要なのがこの競技の特色だと言えます。

藤澤さんにとって、公文の思い出とは?

障害をことさら意識することなく育った幼少期

藤澤 潔さん

ふだんの僕は一般企業の総務部で働いています。はじめは週5日の勤務をしていたのですが、通勤に2時間かかるので、勤務後の練習が十分にできない状況でした。そこで会社に相談して、週3日勤務に変更していただきました。勤務する会社は車椅子バスケをとても応援してくださっていて、僕が所属している埼玉のチームのメインスポンサーでもあります。とても有難い会社に就職できたと思っています。

僕は5歳の時に跳び箱から落ちて脊髄を損傷し、車椅子に乗るようになりました。しかし障害をことさら意識することもなく、友だちと家を行き来したり、のびのび過ごしていましたね。当時はやっていたミニ四駆やゲームに他の子と同じように熱中したのですが、父が機械関連の自営業だったこともあってか、この頃は「将来はプラモデルの設計者になりたい」と思っていました。両親も口うるさく何か言ったりせず、おおらかに見守ってくれましたし、僕がバスケに夢中になってからは、とくに母は毎日のように練習の送り迎えをして応援してくれました。

習いごととしては、年長から中学3年生まで公文を続けていました。“このゲームでちょっと遊んだら公文をする”“ご飯を食べる前に公文”といった具合に、毎日の生活の中に公文がしっかり定着していました。はじめは簡単だった教材がだんだん難しくなってきて、小学校高学年の頃の一時期は教室に通うのが苦痛だったときもありました。ちょうどこの頃は、通っていた教室が2階にあって通うのが大変だったため、兄が宿題を交換して自分は家で学習という状況だったのも苦痛の一因だったかもしれません。

そんな様子を見かねてか、先生は特別に僕をご自宅に呼んでくださるなど、続けていくための配慮をしてくださいました。とても厳しい先生で、自宅での特別指導は、それはそれで緊張しましたが(笑)。中学になってから教室が別棟の1階に移転して、自分で学校帰りに通えるようになり、最後には楽しく通っていましたね。

車椅子バスケを始めたきっかけとは?

初めてのフリースロー体験から車椅子バスケの道に

藤澤 潔さん

公文でやる“基礎の反復”はバスケットボールにも通じるものがありますね。シュートも味方との連携も、基礎を丁寧に何度もくり返し、確認しながら次のステップに進んでいくことが大事です。また、自信を持って次に進んでいくというのは、自分に納得できている状態を積み重ねるということ。このことは、強い相手と競り合うようなギリギリの勝負の局面で気後れしないための自信につながると思います。公文で学んだことは車椅子バスケにもすごく役立っているな、といま振り返って思います。

僕が初めて車椅子バスケットボールに出会ったのは、中学1年生のとき。地元で車椅子バスケットボールの体験会があることを母が知って、僕を連れて行ってくれたんです。それまで障害者スポーツをやったことも、実際に観たこともなかったので、障害のある人たちが頑張っている姿がとても新鮮でした。試しにフリースローをやってみたら、ボールがゴールにまったく届かない人が多いなかで、僕は初めてなのに届いたんです。

“練習すればもっとできるかもしれない”と思い、競技をやってみることにしました。でも実際に始めてみると、サークルでは一番下手で怒られたりすると悔しさもありました。元来、負けず嫌いなのだと思いますが、怒られた悔しさがまたバネになって、バスケにのめり込むようになりました。

もうひとつ、高校1年の時のある人との出会いも大きかったです。その年に車椅子バスケの世界選手権が北九州で開催されまして、せっかく日本で開催されているのだから、と母と兄とで出かけました。会場は満員で日本戦のチケットは売り切れ、といった現地の盛り上がりにも驚きましたが、試合を見ていて、僕はある選手にくぎ付けになりました。次々にシュートを入れ、ポイントを稼いでいるイギリスのジョン・ポロック選手です。彼は、僕と同じくらいの障害のクラス。障害が重いにもかかわらず、チームを決勝に導いている彼のプレーに圧倒されながら、“僕もああなりたい”と憧れ、より熱中するようになりました。

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藤澤 潔さん 

後編のインタビューから

-ロンドンパラリンピック落選から次のステップへ
-念願のリオ・パラリンピック代表メンバーに仲間入り
-藤澤さんから子どもたちへのメッセージ

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