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Vol.020 2015.06.05

建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん

<前編>

誰もやっていないことに
チャレンジしてみよう

未経験はむしろ自分の可能性
ひろげるチャンス

東北大学大学院教授 建築史・建築批評家

五十嵐 太郎 (いがらし たろう)

1967年フランス・パリ生まれ。1990年東京大学工学部建築学科卒業。1992年東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。中部大学工学部助教授、東北大学大学院准教授を経て、2009年から東北大学大学院教授。ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2008の日本館コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013の芸術監督を務めた。著作に『現代建築に関する16章』(講談社現代新書)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)、『建築と音楽』(NTT出版)、『戦争と建築』(晶文社)など多数。

「建築史・建築批評家」として、「建築」という分野に軸足を置きながら、新聞の書評委員や映画のコメンテーターとしても活躍されている五十嵐太郎さん。来場者62万人を超えた「あいちトリエンナーレ2013」では、芸術監督を務められました。「より多くの人に建築はおもしろい!と思ってもらいたい」との思いで多彩な活動をされている五十嵐さんに、建築の魅力や「建築史・建築批評家」として活動される背景などについてうかがいました。

目次

その街の歴史、社会が建物をつくるぼくの建築へのアプローチ

建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん

東京の品川駅の湾岸側に、品川インターシティと品川グランドコモンズという高層ビル群があります。これらの建物は同じような高さで並んでいますが、それはなぜだかわかりますか。近くに羽田空港があって、飛行機の離発着とぶつからない高さの制限ぎりぎりに合わせているからなんです。そんなふうに、「この建物はなんでこんな形でこんなところにあるのかな?」という視点で建築を見ると、その街独自の歴史や背景、文化が見えてきます。もちろん、純粋に芸術として、「デザインがいいね」という見方もできますし、奇抜な形の建築でも構造的な裏付けがないと建てられないので、工学的な視点で見ることもできます。

一方で、社会環境が建築をつくらせる場合もあります。たとえば小学校が建てられているのは公的な教育制度があるからで、制度がなかった大昔には学校という建物はありませんでした。国会議事堂も議会制度をもとに作られました。建築は雑多なものの集積です。だから、いろんな切り口から見ることができて、何にでもつながっていく。さまざまなことが読み取れて、街を歩いていても飽きません。建築をつくったりデザインするのではなく周辺の物語に着目する、それがぼくの建築への関わり方です。

日本で建築学が属するのは、一般的に工学部ですが、幅広い分野にまたがります。耐震構造の研究など、純粋に「工学」に近いものから、構法や材料、またリサイクルを考えたり、空調などをコントロールするといった、「環境」からのアプローチ、設計・デザインという「芸術」的なアプローチもありますし、間取りや配置などを考える「計画学」、さらには「歴史学」など、人文系に限りなく近い分野のものまであります。

ぼくはもともと歴史学が専門で、現在、東北大学大学院の教授として、都市・建築デザイン学の研究室をもち、近現代の建築史や建築論・都市論のほか、設計・デザインの授業も担当しています。ただ、「歴史」の対象とされるのは、だいたい50年以上経ってからのものなので、比較的新しいものについては、批評あるいは評論となります。それで「建築批評家」という肩書きをつけています。

工学部に進学できた理由とは?

勉強する両親の背中を見て、「家では勉強するものだ」と思って過ごした子ども時代

建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん

建築を専門にしていると、何か印象的な建築物に出会ってこの道を志したと思われがちですが、残念ながらぼくにはそれがなく、理系が得意で、「なんとなく」建築方面に進んだというのが正直なところです。

父は美学、母は美術史の研究者で、両親がフランス留学中にぼくが生まれました。育ったのはフランス西部のポワチエという町で、そこに5歳までいました。家庭内でもフランス語で育ったため、日本に帰国したとき、日本語はちんぷんかんぷん。帰国後は1年ほど祖父母がいる千葉で暮らして、そこでフランス語から日本語を「インストール」し直しました。子どもだったから、忘れるのも覚えるのも早いんです。

その後、父の仕事の関係で金沢へ引っ越して、小学校卒業後は地元の国立大学付属中学・高校へと進みました。受験したのは「友だちが受けるから」と単純な理由だったと思います。親からはとくに勉強をしいられた覚えはありませんが、両親とも研究者だったので、自宅には本がたくさんあり、ふたりとも家ではいつも勉強していました。そのため、「家では勉強するものだ」と思っていたんです。そのうち友だちの家の様子を知るようになって、「うちは変わっているんだな」と気づきましたが(笑)。

小学生のときから算数の成績は良くて、小3くらいから公文の教室に通っていました。計算問題を解くのがゲーム感覚でおもしろかったですね。ぼくが工学部に進学できたのは、このころ徹底的に計算能力を磨くことができたからで、公文でいわば「基礎体力」が存分に培われたのだと思います。おかげでそれ以降に出会う複雑な数式には、抵抗感を感じることはなかったです。

とはいえ、ずっと好成績が続いたわけでもなく、高校時代に120人中100番くらいに落ち込んでしまったこともあります。さすがに「まずいな」と思い、朝4時に起きて勉強するようにしました。夜と違って疲れていないから吸収力が違います。その習慣をきっかけに成績も何とか回復させることができました。

「表現すること」に興味をもったきっかけとは?

「表現すること」に興味を持ったきっかけは音楽だったロックから建築へ

建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん

中学・高校と、数学、物理、英語はできたので、必然的に「理系を受験したほうがいい」となりました。でもとくに勉強したい分野は決まっていなくて、学部に迷いました。そんなとき、東京大学だったら2年生になるまで専門を決めなくてもいいということを知って、「じゃあ、東大に行こう」と。

幸いなことに理科一類に合格したのですが、東大には自分よりすごい人がたくさんいます。これはかなわないと思い、逆の方、つまり人文系に近い建築に進むことにしました。「絶対建築に!」ということではなかったんです。

恥ずかしながら建築学科に進んでも勉強はほとんどせず、音楽、それもハードロックに熱中していました。中学・高校時代は音楽を聴いたり、ロックバンドの歴史や系統図を調べたり、という程度でしたが、大学に入ってからはバンドを組んで、大学院までライブ活動をしていましたね。

いまは建築という分野で表現行為をしているぼくですが、最初に表現行為に関心をもったのは音楽だったんです。聴くことはもちろんですが、ライナーノーツを読み込んで、このメンバーがこのバンドに入ったからこんな音楽性の影響を受けているとか、バンドの歴史や系統をひもといたりするのが楽しかった。それが「表現するとはどんなことだろう」という思いや、「人の表現行為に対して文章を書いてみたい」という気持ちの原点になっています。

大学4年になると、仲間は就職活動を始めましたが、ぼくにはピンとこなくて。親がサラリーマンではなかったこともあり、会社勤めは想像できなかったんですよね。それで、もう少し勉強するかと、大学院を受けることにしました。でもバンドに熱中していたせいもあり、受験に失敗して……。「これはまずいな、好きな音楽では食っていけないしな」と思い、この失敗をきっかけに、ようやくまじめに建築を勉強するようになったのです。

設計やデザインをやろうと思ったときもありましたが、その分野ではぼくよりもずっとできる人がいる。でも建築に関する文章を書いたり、コンセプトを考えたりすることは得意でした。対象は音楽から建築にシフトはしましたが、系統を追う、つまり歴史を研究するという意味では変わりなく、この頃からぼくの関心は建築史に向かうことになりました。


建築史・建築批評家 五十嵐太郎さん  

後編のインタビューから

– 「知的好奇心を持続できる人」が強く生き残る
– 未経験はむしろチャンス 「あいちトリエンナーレ2013」の芸術監督に
– より多くの人に「建築はおもしろい」と思ってもらいたい

 

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